義民のあしあと

片岡万平(生板の三義人供養塔)

河内町の妙行寺境内にある「生板三義人供養塔」


文化14年(1817)、天領であった常陸国河内郡生板(まないた)村(今の茨城県河内郡河内町)など8か村では、凶作にもかかわらず代官の吉岡次郎右衛門が重税を課したため、百姓430名あまりが江戸の代官屋敷に押しかけて門訴を行い、さらに同村百姓の片岡万平、石山市左衛門、成毛与五右衛門の3人が頭取となって勘定奉行所に代官の非法を訴えて捕縛されました。この3人は吟味中に牢死しますが、後に代官の片岡も解任されて年貢は軽減されています。
土地の百姓らは「生板の三義人」に感謝し、文政6年(1823)に妙行寺境内に法華塔を建立して供養しました。


義民伝承の内容と背景

文化14年(1817)、天領であった常陸国河内郡生板(まないた)村(今の茨城県河内郡河内町)をはじめとする8か村では凶作に見舞われたため、代官の吉岡次郎右衛門に年貢減免を願い出るものの聞き届けられず、かえって翌年分と合わせて年貢を前納するようにという過酷な命令を突きつけられます。

はじめ万歳村大名主・秋山元右衛門が江戸に赴いて年貢減免を嘆願するものの却下されたため、密かに村々に廻状がもたらされ、生板村の妙行寺で百姓らが集会を開き、大挙して江戸の代官屋敷に押しかけて門訴をすることに決しました。

このとき議論を主導したのが生板村の百姓・片岡万平で、彼は文化9年(1813)の大火で妙行寺の堂宇が焼失した際、亮海和尚とともに本寺である上野寛永寺の圓珠院に出向くなど再建に奔走した人物で、村人の信望を集めていたといいます。

同年旧暦10月、片岡万平とともに生板村の石山市左衛門、成毛与五右衛門の3人が頭取となり、今の河内町から龍ケ崎市・常総市までを含めた天領(常陸国河内郡生板村・大徳村・大徳村鍋子新田・宮淵村・宮淵村鍋子新田・下総国豊田郡中妻村・上石下村・下石下村)から百姓436人が江戸に上り、代官・吉岡次郎右衛門の屋敷において門訴を行います。

しかし結局は聞き届けられず、片岡万平・石山市左衛門・成毛与五右衛門の3人は幕府勘定奉行にも代官の非法を訴え出たため、越訴にあたるとして捕らえられ、吟味の最中に全員が小伝馬町の牢屋敷で獄死しています。

この門訴に参加した村々の百姓も勘定奉行の服部伊賀守から手鎖・過料などの刑罰を受けていますが、急度叱りといった比較的軽い刑罰で済んだ者が多く、文政4年(1821)には当の吉岡次郎右衛門も代官を免ぜられ、猪名鞆之助が新たな代官となって年貢も軽減されています。

そこで土地の百姓らはこれら「生板の三義人」に感謝し、文政6年(1823)、「義篤院恵戒徴証居士」(=片岡万平)など3人の法名を表面に、100人あまりの世話人の名を台座に刻んだ法華塔を妙行寺境内に建立して供養しました。

昭和に入ってからも地元では「三義人顕彰会」が組織され、盛大に年忌法要が行われているほか、法華塔は河内町の指定文化財第1号になっています。


生板の三義人供養塔へのアクセス

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名称

生板の三義人供養塔 [参考リンク]

場所

茨城県河内郡河内町生板4947
(この地図の緯度・経度:35.8874, 140.2182)

備考

「生板三義人供養塔」は、妙行寺境内の本堂向かって左側にあり、標柱や教育委員会が建てた史跡案内板などもあるのですぐに分かります。妙行寺そのものの位置は生板集落の奥にあるのでややわかりにくいですが、「生板・三義人の寺 天台宗妙行寺」と書かれた看板が県道121号沿いなどの要所に立っています。


参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。

関東地方 片岡万平