義民のあしあと

杢右衛門(杢右衛門の供養塔)


文化9年(1812)、重税に耐えかねた佐伯藩領の豊後国海部郡因尾(いんび)村(今の大分県佐伯市)ほかの百姓4千人が大庄屋の屋敷などを打ちこわし、「願望拾ヶ条」を掲げて強訴に及ぶ、いわゆる「文化一揆」が勃発します。
佐伯藩では切畑村の洞明寺に本陣を構え、百姓に向けて大筒を撃ち、4人を死傷させるなどして防戦します。
やがて佐伯藩家老の戸倉織部も現地に到着し、自ら百姓らの説得に当たってようやく沈静化します。
その後の藩の取調べにより、因尾村の百姓杢右衛門・文七の両名が頭取として刎首獄門となり、その他の百姓らが遠島や所替、過料などの刑に処せられました。
杢右衛門の処刑後、その菩提を弔うため、一揆に参加した百姓らが資金を出し合い、戒名や俗名を刻んだ石仏(地蔵菩薩の坐像)が建てられました。


目次
  1. 杢右衛門の供養塔の概要
  2. 杢右衛門の供養塔へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

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杢右衛門の供養塔へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

杢右衛門の供養塔 [参考リンク]

場所

大分県佐伯市本匠大字上津川地内
(この地図の緯度・経度:32.904083, 131.705167)

備考

「杢右衛門の供養塔」は、県道53号線から入ったところの竹に覆われた山の斜面にあります。供養碑まで行けば旧本匠村教育委員会が建てた史跡案内板がありますが、県道その他には特段の目印になるものはなく、外から見通しも利かない山中です。
戸倉織部が本陣とした洞明寺は大分県佐伯市弥生大字江良998、一揆勢が集会を開いたとされる正定寺は大分県佐伯市直川大字仁田原4097にあり、それぞれ国道16号沿いに大きな寺号標があるのでかなりわかりやすいといえます。


義民伝承の内容と背景

江戸時代の佐伯藩は毛利家2万石の領土でしたが、耕作に適した土地は少なく、「佐伯の殿様、浦でもつ」といわれるとおり、主に豊後灘に面した「浦」を拠点とする漁業と、山間部の林業・製紙業などによってその収入が支えられていました。

しかし、9代藩主の毛利高誠(たかのぶ)の頃には天災が相次いで山間部の農村を直撃し、百姓は借金をして年貢を支払う状況に陥っており、救荒用を名目に強制徴収される助合銀なども大きな負担となっていました。

折しも前年の文化8年(1811)には佐伯藩に隣接する岡藩で大規模な百姓一揆が勃発していたこともあり、文化9年(1812)正月11日の夜、重税に耐えかねた豊後国海部郡因尾(いんび)村・横川村・赤木村・仁田原村・上直見村・下直見村・中野村の7か村(今の大分県佐伯市)の百姓4千人が横川村境の於流(おりゅう)峠に集結し、鐘や法螺貝、鉄砲を打ち鳴らして気勢を上げ、藩に対する強訴に及びます(「文化一揆」)。

一揆の指導者らは仁田原村の正定寺で協議し、年貢軽減などを要求する「願望拾ヶ条」を取り決めた上で、大庄屋や御紙場役人、酒屋などの屋敷を打ちこわし、借金の証文を焼き払って、切畑村の石畑(今の佐伯市弥生大字江良)まで押し寄せます。

しかし、切畑村は番匠川を越えると佐伯城下という要衝の地にあたるため、佐伯藩では郡奉行の斉藤勘左衛門・袋野孫右衛門や代官の天谷甚左衛門らが出張して切畑村の洞明寺に本陣を構え、切畑村大庄屋の打ちこわしにやってきた百姓に向けて簾山から大筒を撃ち、3人死亡、1人を負傷させるなどして防戦します。

やがて佐伯藩家老の戸倉織部も現地に到着し、百姓らが切畑村大庄屋の屋敷を打ち壊している最中に自ら百姓らのもとに出向き、その説得に当たるとともに食糧を提供しています。

このとき百姓らは「戸倉殿がここまで来るわけがない。にせものに違いない。」と竹槍を突き出したところ、戸倉織部は提灯を掲げて「戸倉織部である。百姓の願いを聞き届けるから早く鎮まり申し立てよ。こうまで言っても聞かないのならここを突け。」と陣羽織をはだけて胸を露わにしたので、その気迫に気圧されて平伏したといいます。

戸倉織部は洞明寺で百姓らと交渉し、助合銀の廃止を約束するとともに、他の要求は江戸に出府して藩主に言上するので100日待つようにと伝え、一揆はようやく沈静化します。

その後は藩の取調べにより、因尾村の枝郷に当たる上津川の百姓杢右衛門と、同じく因尾村組堂ノ間の百姓・文七の両名が頭取として捕らえられ、引き回しの上、番匠川原で刎首(はねくび)獄門となり、その他の百姓らも深島(大分県最南端の離島。現在では珊瑚礁のリゾート地・猫が多く住む猫島として知られている。)への遠島や所替、過料などの刑に処せられました。

一揆の頭取として処刑された杢右衛門の菩提を弔うため、一揆に参加した百姓らは資金を出し合い、因尾村上津川にその戒名「寂照道光信士」や俗名を刻んだ石仏(地蔵菩薩の坐像)を建てており、今なお地元に残されています。

また、佐伯藩文化一揆と関わりが深い正定寺では、同寺の創建500年を記念して、墨絵アーティスト・西元祐貴の手により「百姓一揆ふすま絵」が制作され、年に1度の大みそかの除夜の鐘に合わせて公開されます。

さらに、切畑村大庄屋の出納藤左衛門は、一揆のあった翌年から灌漑用水路「常磐井路」の開削を計画し、藩からの借用金を受けつつ総額37貫の3分の1にあたる銀12貫もの多額の私財を投じて文化13年(1816)に着工、いったん洪水により甚大な被害を受けるものの、修復の末に文政元年(1818)に完成させ、今なお大分県の治水史のなかで語り継がれています。



参考文献・参考資料

  • 佐伯秘説録
  • 『大分県史』近世篇1(大分県総務部総務課編 大分県、1983年)
  • 『佐伯地方の先覚者たち』(古藤田太著 大分合同新聞社、1984年)
  • 『本匠村史』(本匠村史編さん委員会編 本匠村史編さん委員会、1983年)
  • 大分県地方史料叢書 第8 文化一揆史料集1『党民流説』(豊田寛三ほか編 大分県地方史研究会、1984年)

書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社)はリンク先下部に記載があります。リンクがないものは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で収蔵している場合があります。

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