義民のあしあと

永田隆三郎




義民伝承地の概要

江戸時代の肥後国天草郡(今の熊本県天草市など)は天領となっており、土地の質入れで困窮する百姓のために「百姓相続方(あいつづけかた)仕法」とよばれる一種の徳政令が公布されていました。

弘化2年(1845)には期限切れの相続方仕法の再公布を求めて江戸で直訴した御領組大庄屋・長岡興就が投獄されており、憤慨した百姓たちは弘化4年(1847)に天草郡栖本組古江村庄屋・永田隆三郎を頭取とする1万5千人規模の「弘化大一揆」を引き起こし、「銀主」とよばれる高利貸しを打ちこわして「島原の乱」の再来といわれます。

この一揆はもともと仏教用語の「法界平等」を掲げているところが特徴的で、今日の人権思想につながるものとして評価されています。

しかしながら、一揆後に永田隆三郎は捕らえられ、嘉永2年(1849)に獄門に処せられたほか、長岡興就も大庄屋職を免じられています。

現地には永田隆三郎が建立した「法界平等碑」や墓地などの当時を偲ぶ遺跡が今でも残されています。

法界平等碑の地図

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名称 法界平等碑
所在地 熊本県天草市栖本町古江字沖ノ瀬地内
備考 「法界平等碑」は、国道266号を外れて海側の細い道路を進んだ先の、沖の瀬古墳群に属する古墳の墳丘に建立されたものです。道路を挟んだ2か所あり、どちらも道路沿いの入口に「法界平等碑」と書かれたコンクリート柱があるものの目立ちませんので、現地に行く場合は墓地や古墳の景観を目当てに探すのがよいといえます。もうひとつの位置は緯度経度で(32.3989, 130.2872)付近です。入口からはコンクリートの参道が整備されており、碑面には「南無阿弥陀仏无縁法界平等利益」と書かれています。

「永田隆三郎役宅跡」は、天草市の指定史跡ですが、現在は古江公民館(公民館条例に基づく公の施設ではなく地元管理のもの)と消防団格納庫の敷地になっており、現地にそのことを示す案内板が建っています。国道266号から至近で、緯度経度で(32.4062, 130.2841)付近です。

「永田隆三郎の墓」は、役宅跡から国道266号を150メートルほど西に向かった天草八十八ヶ所霊場の古江大師堂との間にあり、国道沿いの入口には「永田家 益田家 墓所参道入口」と書かれた石柱と「義民永田隆三郎百五十年記念碑」が建っています。この入口からコンクリート舗装の参道を通って山の上にあります。緯度経度で(32.406806, 130.283000)付近です。
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  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

江戸時代の終わりには度重なる飢饉や年貢の増徴、貨幣経済の浸透などによって、農村の疲弊が激しくなったといわれていますが、肥後国天草郡(今の熊本県天草市など)でも同様の状況が見られました。

特に天草の場合には、江戸前期の「島原の乱」による人口減少を埋め合わせるために伝統的に他領からの移民政策が採られてきたため、石高に対して人口が過大な状態になっており、零細農家が借金のために質入れした土地が質流れで「銀主」とよばれる豪商に集約され、ますます貧富の格差が進む悪循環が産まれていました。

こうしたなかで、寛政4年(1792)、寛政8年(1796)と相次いで天草郡の幕府領に「百姓相続方(あいつづけかた)仕法」とよばれる一種の徳政令が発令され、田畑永代売買禁止令を根拠にして、元の持ち主が質地を無利息で請け戻せること、借用期間10年以内の借金は元金のみの20年賦による分割払いが可能なことなどが定められました。

この「百姓相続方仕法」は時限立法にあたることから、期限切れの天明から弘化年間にかけては村々でも百姓救済のための再公布を要求する動きが高まり、御領組大庄屋・長岡五郎左衛門興就らは百姓の利害を代表して富岡代官所(今の熊本県天草郡苓北町)に願い出るものの、聞き届けられることはありませんでした。

そのため、御領組大庄屋・長岡興就は弘化2年(1845)、江戸に上って幕府老中・阿部正弘の登城時に駕籠訴を行い、結果として翌3年(1846)には新たな「天草百姓相続方仕法」が公布されますが、以前に比べると内容は不十分であった上に、自身は越訴の罪で入牢を申し付けられてしまいました。

このような状況に憤慨した天草郡26か村の百姓たちは、弘化4年(1847)正月27日、天草郡栖本組古江村(今の熊本県天草市)庄屋・永田隆三郎を頭取として、「島原の乱」の再来といわれる1万5千人規模の「弘化大一揆」を引き起こし、6日間にわたって高利貸しの「銀主」の屋敷84軒ほどを打ちこわして回ります。

この一揆が特徴的なのは、もともと読経などのお勤めをした功徳が生きとし生けるものすべてに行き渡りますようにと仏に祈願する趣旨の仏教用語である「法界平等」の思想が根底にあるところで、身分や門地による差別を排除する今日的な人権思想にもつながるものと評価されています。

しかしながら、一揆が鎮圧された後には多くの百姓が捕らえられて獄舎につながれ、特に永田隆三郎は一揆の頭取として嘉永2年(1849)2月2日に獄門に処せられ、長岡興就も入牢の上大庄屋の職を免じられており、この混乱の中でほどなくして明治維新を迎えることになります。

現地には大一揆に先立つ文政11年(1828)、古墳の被葬者を弔う目的で永田隆三郎が建立した「法界平等碑」が残されており、その題字は永田隆三郎の自筆といわれ、一揆の思想的背景をうかがい知ることができる貴重な遺跡となっています。

また、代々の古江村庄屋の家系だった永田隆三郎(10代目)が刑死した後、古江村庄屋職は短期間だけ栖本組大庄屋の兼帯を経て、後に妻の実家である益田家のほうに引き継がれており、永田隆三郎の墓が永田家・益田家の共同墓地に建てられているほか、役宅跡は古江公民館の敷地として利用されています。

参考文献・参考資料


リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

 

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