義民のあしあと

最首杢右衛門(吉田杢右衛門、深堀村杢右衛門)




義民伝承地の概要

上総国夷隅郡深堀村(今の千葉県いすみ市)は旗本・阿部正甫(まさはる)の知行所になっていましたが、深堀村を含む5か村に400両の御用金を課して、駿府在番の費用をまかなおうとしました。

村々では不作のため200両を減免してもらうよう嘆願したものの、かえって稲の作柄を役人が悉皆調査する総検見によって厳しく年貢を取り立てる旨を申し渡されたため、寛延3年(1750)、深堀村組頭の杢右衛門が他の百姓らとともに江戸に赴き、阿部正甫の屋敷での門訴を行います。

杢右衛門は捕縛され、真福寺の助命嘆願もむなしく、同年12月23日に斬罪に処せられたことから、5か村では共同して杢右衛門の供養碑を菩提寺の坂水寺に建立しています。

また、戦後になって「最首杢右衛門者匹夫、而為百世神」などと刻まれた杢右衛門の屋敷墓が最首家墓地の土中に埋められているのが発見されています。

杢右衛門の碑の地図

地図が表示されるまでお待ちください。
Webサービス by Yahoo! JAPAN
名称 杢右衛門の碑
所在地 千葉県いすみ市新田3281
備考 「杢右衛門の碑」は、坂水寺の鐘楼の隣にあり、「いすみ市指定史跡 杢右衛門の碑 一基」と標識が建っているのですぐにわかります。表面の文字も比較的はっきりと読めます。

「最首杢右衛門の墓碑」(屋敷墓)は、いすみ市深堀地内(緯度経度で 35.2576, 140.3863 付近)にありますが、美容室すまいる(千葉県いすみ市深堀808-10)のほか特に目印になりそうなものはありません。

「祀最首杢右エ門之首塚」碑は、いすみ市立東海小学校の校舎から約300メートル北方にあたる、いすみ市若山地内(緯度経度で 35.2669, 140.3852 付近)の水田地帯の農道沿いに建っています。こちらも強いて目印といえば「危険注意! 事故に関して一切の責任は負いません 東海土地改良」の看板がある用水路沿いの細い農道を進むという程度です。

「瀧口神社」は、千葉県いすみ市深堀737番地(緯度経度で 35.260465,140.386379 付近)に鎮座する神社で、旧道の国道463号の急カーブの先にあるので割と目立ちます。大原はだか祭りでは東海地区の筆頭に掲げられる神社です。
参考リンク [クリックして遷移]

  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

江戸時代中期、上総国夷隅郡深堀村(今の千葉県いすみ市)は旗本・阿部正甫(まさはる)の知行所になっていましたが、駿府在番を命じられて費用がかさんだため、深堀村と嘉谷村・押日村・浜村・小池村のあわせて5か村に対し、年貢とは別に400両もの御用金を賦課します。

村々では田方不作を理由として、200両は借金をしてでも納入できるが、残りの200両は免除してほしいと用捨願いを出したところ、かえって報復として、すべての田で稲の作柄を調べる総検見を行い厳しく年貢を取り立てるので、それまでの間は鎌止めとして稲の刈り取りを禁止する旨を申し渡されます。

これも百姓たちから従来どおりの検見を願い出たものの、代官の弥三左衛門は取り合わずにどこにでも訴え出ろという態度だったため、ついに深堀村組頭の杢右衛門が他の百姓らとともに江戸に赴き、阿部正甫の屋敷での門訴を行います。

果たして最首杢右衛門は捕らえられ、徒党を組み越訴に及んだとして死罪が決まったことから、他領の真福寺までもが助命嘆願を行ったことが戦後旧家(地誌『南総珍』を書いた渡辺寛(渡辺増右衛門)の子孫宅)から発見された助命嘆願書の草稿により知られますが、その甲斐もなく同年12月23日に江戸屋敷内で斬首されてしまいます。

なお、当時の深堀村の大庄屋は最首右門之助だったものの、15歳とまだ若年だったことから、41歳で組頭の杢右衛門が門訴の頭取を務めており、杢右衛門の処刑後、右門之助の叔父にあたる最首左五がその子供らを引き取ったため、本来は吉田杢右衛門と呼ばれるところ、今日では最首杢右衛門と呼ばれるようになっています。

この件については、深堀村の滝口神社の僧侶(神仏習合で神社に僧侶がいた)の啓賛が江戸の小塚原刑場に晒されている杢右衛門の首を供養しようと持ち去ったところ、役人に追われたために淵に身を投げて入水自殺したという伝説も残されており、戦後の土地改良事業で江戸時代の髑髏が発掘された用水路脇の場所には「最首杢右衛門之首塚」の碑が建てられています。

また、最首杢右衛門の門訴事件は将軍・徳川家重の知る所となり、老中の評議により阿部正甫は降格処分になり、総検見も中止されたといわれていますが、『寛政重修諸家譜』には別件(書院番頭として部下の松平親房の素行不良を報告しなかったこと)で宝暦2年12月(1753年1月)に「其職を奪て小普請に貶され、閉門せしめらる」との記録はあるものの、一揆との関わりは書かれていません。

深堀村はじめ5か村では、共同で施主となって「勝光院西岳経雲居士」の法名などを刻んだ杢右衛門の供養碑を菩提寺の坂水寺(ばんすいじ)境内に建立していますが、この供養碑は境内墓地の土留め石として埋まっていたものが戦後に偶然発見され、「杢右衛門の碑」として大原町の有形文化財の指定を受けています。

同じく最首家の墓地からも「最首杢右衛門者匹夫、而為百世神、一言而救万民命、生命極四十一、剣上投五尺身、臨危不変、方是丈夫心也」と刻まれた最首杢右衛門の墓碑が土中に埋められているのが発見されており、杢右衛門は卑しい身分だが百姓の生命を救った義挙で百代の後には神として崇められるだろうという意味合いと見られています。

参考文献・参考資料


リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

 

島原の乱とキリシタン (敗者の日本史) Amazon アソシエイト

国立国会図書館


リンク


土佐警察署
土佐警察署での運転免許更新手続き・警察署の位置及び連絡先ほか
【車椅子の旅】夷隅神社
夷隅神社
夷隅神社は、千葉県夷隅郡大多喜町にある神社で、古くは「牛頭天王宮」と呼ばれました。創建時期は不明ですが、天……


↑ ページの最初に戻る