最首杢右衛門(杢右衛門の碑)
上総国夷隅郡深堀村(今の千葉県いすみ市)は旗本・阿部正甫(まさはる)の知行所になっていましたが、深堀村を含む5か村に400両の御用金を課して、駿府在番の費用をまかなおうとしました。
村々では不作のため200両を減免してもらうよう嘆願したものの、かえって稲の作柄を役人が悉皆調査する総検見によって厳しく年貢を取り立てる旨を申し渡されたため、寛延3年(1750)、深堀村組頭の杢右衛門が他の百姓らとともに江戸に赴き、阿部正甫の屋敷での門訴を行います。
杢右衛門は捕縛され、真福寺の助命嘆願もむなしく、同年12月23日に斬罪に処せられたことから、5か村では共同して杢右衛門の供養碑を菩提寺の坂水寺に建立しています。
また、戦後になって「最首杢右衛門者匹夫、而為百世神」などと刻まれた杢右衛門の屋敷墓が最首家墓地の土中に埋められているのが発見されています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代中期、上総国夷隅郡深堀村(今の千葉県いすみ市)は旗本・阿部正甫(まさはる)の知行所になっていましたが、駿府在番を命じられて費用がかさんだため、深堀村と嘉谷村・押日村・浜村・小池村のあわせて5か村に対し、年貢とは別に400両もの御用金を賦課します。
村々では田方不作を理由として、200両は借金をしてでも納入できるが、残りの200両は免除してほしいと用捨願いを出したところ、かえって報復として、すべての田で稲の作柄を調べる総検見を行い厳しく年貢を取り立てるので、それまでの間は鎌止めとして稲の刈り取りを禁止する旨を申し渡されます。
これも百姓たちから従来どおりの検見を願い出たものの、代官の弥三左衛門は取り合わずにどこにでも訴え出ろという態度だったため、ついに深堀村組頭の杢右衛門が他の百姓らとともに江戸に赴き、阿部正甫の屋敷での門訴を行います。
果たして最首杢右衛門は捕らえられ、徒党を組み越訴に及んだとして死罪が決まったことから、他領の真福寺までもが助命嘆願を行ったことが戦後旧家(地誌『南総珍』を書いた渡辺寛(渡辺増右衛門)の子孫宅)から発見された助命嘆願書の草稿により知られますが、その甲斐もなく同年12月23日に江戸屋敷内で斬首されてしまいます。
なお、当時の深堀村の大庄屋は最首右門之助だったものの、15歳とまだ若年だったことから、41歳で組頭の杢右衛門が門訴の頭取を務めており、杢右衛門の処刑後、右門之助の叔父にあたる最首左五がその子供らを引き取ったため、本来は吉田杢右衛門と呼ばれるところ、今日では最首杢右衛門と呼ばれるようになっています。
この件については、深堀村の滝口神社の僧侶(神仏習合で神社に僧侶がいた)の啓賛が江戸の小塚原刑場に晒されている杢右衛門の首を供養しようと持ち去ったところ、役人に追われたために淵に身を投げて入水自殺したという伝説も残されており、戦後の土地改良事業で江戸時代の髑髏が発掘された用水路脇の場所には「最首杢右衛門之首塚」の碑が建てられています。
また、最首杢右衛門の門訴事件は将軍・徳川家重の知る所となり、老中の評議により阿部正甫は降格処分になり、総検見も中止されたといわれていますが、『寛政重修諸家譜』には別件(書院番頭として部下の松平親房の素行不良を報告しなかったこと)で宝暦2年12月(1753年1月)に「其職を奪て小普請に貶され、閉門せしめらる」との記録はあるものの、一揆との関わりは書かれていません。
深堀村はじめ5か村では、共同で施主となって「勝光院西岳経雲居士」の法名などを刻んだ杢右衛門の供養碑を菩提寺の坂水寺(ばんすいじ)境内に建立していますが、この供養碑は境内墓地の土留め石として埋まっていたものが戦後に偶然発見され、「杢右衛門の碑」として大原町の有形文化財の指定を受けています。
同じく最首家の墓地からも「最首杢右衛門者匹夫、而為二百世神一、一言而救二万民命一、生命極二四十一一、剣上投二五尺身一、臨レ危不レ変、方是丈夫心也」と刻まれた最首杢右衛門の墓碑が土中に埋められているのが発見されており、杢右衛門は卑しい身分だが百姓の生命を救った義挙で百代の後には神として崇められるだろうという意味合いと見られています。
杢右衛門の碑へのアクセス
名称
- 杢右衛門の碑 [参考リンク]
場所
- 千葉県いすみ市新田3281
(この地図の緯度・経度:35.257769, 140.377618) 備考
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「杢右衛門の碑」は、いすみ鉄道西大原駅南側の坂水寺境内にあります。参道の石段を登った左手の鐘楼脇にあたり、「いすみ市指定史跡 杢右衛門の碑 一基」と標識が建っているのですぐにわかります。表面の文字も比較的はっきりと読めます。
「最首杢右衛門の墓碑」(緯度経度で 35.2576, 140.3863 付近)は、いすみ市深堀地内の最首家墓地内にあり、中央の「先祖代々之墓」とある墓碑の隣に位置しています。この場所にアクセスする上で特に目印になるものはなく、強いていえば墓地参道入口の道路を挟んで反対側に「美容室すまいる」(千葉県いすみ市深堀808-10)がある程度です。
「祀最首杢右エ門之首塚碑」(35.2669, 140.3852)は、いすみ市若山地内の水田地帯の中に建っています。こちらも目印がありませんので、東海保育所(いすみ市若山238-1)のすぐ西側にある水路沿いの道をまっすぐ500メートルほど北に進み、五叉路になっている交差点を探すと、その道路沿いの一角に小さな石碑が見えます。
「瀧口神社」(35.260465,140.386379)は、千葉県いすみ市深堀737番地に鎮座する神社で、旧道の国道463号の急カーブの先にあるので割と目立ちます。大原はだか祭りでは東海地区の筆頭に掲げられる神社です。
参考文献
- 近世史研究遺文
- 千葉県夷隅郡誌
- 百姓一揆事典
- 寛政重修諸家譜 第10
- 『房総叢書』第2輯(房総叢書刊行会編 房総叢書刊行会、1914年)
- 『大原町史』通史編(大原町史編さん委員会編 大原町、1993年)
- 『大原町史』史料集3(大原町史編さん委員会編 大原町、1991年)
[参考文献が見つからない場合には]