義民のあしあと

大原幽学




義民伝承地の概要

江戸時代後期には貨幣経済の浸透により農村の荒廃が進みますが、千葉県香取郡長部村(今の千葉県旭市)の名主・遠藤伊兵衛は、親への孝養や隣人間の相互扶助などを中心とする道徳思想の「性学」を唱える農政学者・大原幽学を招聘し、村の立て直しを図ります。

大原幽学はこの長部村を拠点として、世界初の農業協同組合といわれる「先祖株組合」の創設をはじめ、耕地整理や換子制度などの取組で成果を上げますが、教導所として「改心楼」を新築して多数の農民を集めたことなどが幕府の嫌疑を招き、押込百日の刑罰を受けたほか、「先祖株組合」の解散や「改心楼」の取り壊しを命じられます。

謹慎期間を終えて長部村に帰った大原幽学は、元のように荒れ果ててしまった村の様子を嘆いて村の墓地で切腹自殺し、その場所には後に墓が建てられたほか、生地とされる尾張国にも別に墓が建てられました。

現在、大原幽学の旧宅跡・改心楼跡・墓地・耕地地割の遺構などは一括して「大原幽学遺跡」として国の史跡に指定されるとともに、「大原幽学遺跡史跡公園」として整備されています。

大原幽学遺跡の地図

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名称 大原幽学遺跡
所在地 千葉県旭市長部345-2
備考 「大原幽学遺跡」は、大原幽学の旧宅・墓地・耕地地割などを一括して史跡保存したものですが、特にその中心には「大原幽学記念館」が開館しており、さまざまな史料や遺品を見ることができます。記念館の入口に「大原幽学記念館・遺跡史跡公園駐車場」の看板がありますので、ここに駐車して徒歩で記念館に向かいますが、その距離は200メートルほどあります。

「大原幽学墓地」(緯度経度で 35.780125,140.62703)へは、駐車場前の道路を北に進むと「500m幽学墓地」「史跡大原幽学墓地入口」などの看板が要所にありますので、看板の案内にしたがって移動します。山の中を行く道路の行き止まりにある共同墓地に「大原幽学翁墓」とある墓碑がそれです。(当時の)干潟町教育委員会と八石性理学会が建てた案内の石碑があります。
参考リンク [クリックして遷移]

  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

江戸時代後期には農村にも貨幣経済が浸透したといわれていますが、千葉県香取郡長部村(今の千葉県旭市)も例外ではなく、近隣の飯岡などの賭場に出入りし、大金を失って田畑を売り払ったり、無宿者とともに農民を脅したりする者が現れ、荒廃が進んでいました。

講談の『天保水滸伝』には笹川繁蔵や飯岡助五郎ら侠客同士の争いが描かれていますが、その舞台はまさに長部村を含めた東総地域一帯にあったといえます。

こうした中で、長部村(ながべむら)の名主・遠藤伊兵衛は、たまたま隣村で諸国を流浪していた農政学者・大原幽学の講演を聞き、幽学を村に招聘して荒廃した農村の立て直しを依頼します。

大原幽学の出自には不明な部分があるものの、元は尾張藩(今の愛知県)家臣の大道寺直方の次男で、遺書の冒頭にも「時に僕十八歳にして漂泊の身となり」とあるように、18歳のときに藩の剣術師範を斬り殺して勘当されたともいわれており、その後は諸国を流浪して武者修行をするかたわら、儒・仏・神道や易学を学び、主に占いなどで生計を立てていました。

近江国伊吹山の松尾寺(今の滋賀県米原市)で提宗和尚に出会って以降は、米一粒を得ることの大切さに目覚めて社会活動に邁進することを決意し、「人の為は則我が為也」として、親孝行や隣人間の相互扶助を通じて、人間が本来持っている良心に従い「分相応」に生きることを目指す「性学」を唱え、次第に「道友」と呼ばれる門人も増えていきました。

天保6年(1835)、遠藤伊兵衛の招きに応じてはじめて長部村を訪れた大原幽学は、「先祖株組合」の結成や耕地整理、「換え子」の奨励などの改革を次々と行い、領主で旗本の清水家からも模範村として表彰される成果を収めます。

「先祖株組合」は「世界初の農業協同組合」とも評されているもので、組合員に農地の一部を供出させて組合の財産とし、その収益をもって子孫への積立てや潰れ百姓の救済などに充てる相互扶助のしくみで、長部村のほかにも、荒海村・幡谷村・諸徳寺村で領主の許可を受けて成立しています。

また、湯呑などの日用品を共同購入で安く仕入れたり、農地の交換分合や農地から離れた屋敷の移築によって農地を屋敷近くに集約して経営効率化を図るなどの取組を行っており、整然と区画された農地の遺構は今でも国指定史跡「大原幽学遺跡」のなかに見ることができます。

「換え子」(預かり子)制度は子供を生みの親から離して数年程度、他の門人の家庭に預けて育ててもらうもので、貧しい家の子を裕福な家へ、裕福な家の子を貧しい家に預けたといわれ、地域全体で自他の区別なしに子育てをすることを奨励するものでした。
もっとも、遠藤伊兵衛の子で名主を継いだ遠藤良左衛門(遠藤亮規)の妻・遠藤ゑつのように、村の中でも最初は換え子制度に反発しており、後に実践に転じた例もあります。

天保13年(1842)には遠藤伊兵衛から提供された教導所を住居に改造して本格的に長部村への定住をはじめ、性学の活動も盛んになりますが、そのことによって必然的に門人の数も増加し、専用に講義をする場所が必要になったことから、門人の寄附により多額の費用をかけて教導所である「改心楼」が新築されます。

嘉永4年(1852)、関東取締出役の意向を受けた常陸国新治郡牛渡村(今の茨城県かすみがうら市)の忠左衛門ほか大原幽学に反感を持つ住民ら5人が「改心楼」に乱入し、門人に怪我をさせられと脅して金品を要求する、いわゆる「牛渡村一件」が起こると、この状況は一変します。

「改心楼」は外からは高台に位置して城塞のように見え、そこに多数の農民が出入りしている以上は、一揆の密談をしているとも誤解されかねない面があり、この事件を契機として、大原幽学は関東取締役や幕府勘定奉行の取調を受けるようになります。

江戸での訴訟の結果として、安政4年(1857)、幽学には押込百日をはじめ、「改心楼」の取り壊しや「先祖株組合」の解散が申し渡され、刑期を終えて長部村に帰ってみれば、すっかり村は元のように荒廃したありさまでした。

安政5年(1858)3月8日の未明、落胆した大原幽学は「今爰(ここ)に至て処々に不孝不正に帰る者追々出来を見聞に不忍致自殺事に候」と門人に宛てた遺書をしたためた上で、「難舎者義也」(捨て難きは義なり)と彫られた短刀をもって、長部村の遠藤家の墓地の前で切腹し、62歳の生涯を閉じます。

大原幽学自刃の地には墓が建てられ、現在も命日には墓前祭が行われているほか、出生の地の尾張国にも明治時代に墓が建てられ、現在は平和公園(愛知県名古屋市千種区)に移転されています。

大原幽学の住居跡や墓地、改心楼跡、耕地の地割遺構などは、まとめて「大原幽学遺跡 旧宅墓および宅地耕地地割」として国の史跡に指定され、「大原幽学遺跡史跡公園」として整備されるとともに、その中心には「大原幽学記念館」も開館しています。

参考文献・参考資料


リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

 

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