義民のあしあと

佐藤甚助(甚助神社)


江戸時代前期、雄勝郡上到米村(今の秋田県雄勝郡羽後町)では冷害のため年貢未進が何年も続いてしまい、肝煎の遠山治兵衛と長百姓の佐藤甚助は、年貢減免を求めて領主である出羽久保田藩主・佐竹義隆に直訴をすることになりました。
参勤交代から国許に帰る藩主の駕籠に直訴状を投げ入れた2人は捕らえられますが、藩の検視役が上到米村を訪れたところ、夏の土用にもかかわらず雹が降るのを目の当たりにしたため、直訴の趣旨が真実と認められて釈放され、年貢も軽減されました。
その後時代を経るに連れて百姓勘助の事績が忘れられ、無縁仏になってしまっていたことから、大正時代に村では百姓甚助を神として祀る「甚助神社」を創建しました。


目次
  1. 甚助神社の概要
  2. 甚助神社へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献


甚助神社へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。
名称 甚助神社
場所 秋田県雄勝郡羽後町上到米地内
(この地図の緯度・経度:39.23928, 140.29765)
備考 「甚助神社」は、湯沢方面から北上してきた国道398号の交差点を左折して500メートルほど進んだ集落の片隅にあります。国道沿いに遠山酒店、佐藤商店といった零細な店舗が並ぶ先に「ここは唐松」と地名が表示された道路標識があるので、その交差点が左折すべき場所です。境内まで行かないと「甚助神社」の標柱や石碑などの目立つものがありませんのでわかりにくいですが、茅葺きの建築で近くに墓地があります。
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義民伝承の内容と背景

江戸時代前期、出羽国雄勝郡上到米村(今の秋田県雄勝郡羽後町)は出羽久保田藩の領地でしたが、冷害のため凶作が続き、年貢未進が何年も続いてしまいました。

そこで上到米村の肝煎・遠山治兵衛は、長百姓・佐藤甚助と相談して、年貢減免を求めて領主である出羽久保田藩主・佐竹義隆に直訴をし、村の窮状を救うことにしました。

正保2年(1645)、横手の馬喰橋のたもとにおいて、治兵衛と甚助は参勤交代から国許に帰る藩主の駕籠に直訴状を投げ入れ、そのために2人は捕らえられてしまいます。

藩からは御検視役が上到米村に派遣されますが、まさに一行が上到米村に差し掛かったとき、にわかに雷鳴が轟き、夏の土用にもかかわらず霰が降るのを目の当たりにしたことから、直訴の趣旨が真実と認められ、治兵衛と甚助の両名は釈放されるとともに、年貢も軽減されました。

その後時代を経て、肝煎の遠山家は代々の屋敷や墓地が受け継がれたのに対して、身を捨てて村を救った百姓勘助の事績は忘れ去られて無縁仏になってしまったことから、村では大正時代に百姓甚助を神として祀る「甚助神社」を創建しました。


参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)はリンク先の下部に記載があります。リンクがない参考文献は、一般に流通しない稀覯本や私家本が多いものの、国立国会図書館で貸出をしている場合があります。

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