義民のあしあと

今村久兵衛(若宮社)


伊予国久米郡片平村(今の愛媛県松山市)では、寛永7年(1630)に大規模な干魃が起こり、里正(庄屋)の今村久兵衛が検見の上で年貢を減免するように代官に願い出ますが、聞き届けられませんでした。
そこで自暴自棄になった村人が田に火を掛けて、不作の稲を燃やし尽くしたことから、火災による税金逃れを疑った松山藩により多数の農民が捕らえられる一大事となります(「片平騒動」)。
今村久兵衛は、これらの農民の身代わりとなって、田に火を掛けたのは自分の一存だと訴え出たため、朝生田原で磔に処せられました。
今村久兵衛の処刑からおよそ100年の年月が経った享保13年(1728)には、墓が建立されるとともに百年祭が営まれ、あわせて長徳寺境内の小祠にも祀られました。
今でも毎年8月には地元町内会で供養が行われているほか、市道にも「きゅうべえ通り」の名が付けられています。



義民伝承の内容と背景

江戸時代のはじめ、伊予国久米郡片平村(今の愛媛県松山市)は松山藩主・蒲生忠知の領地でしたが、高台に位置し乾燥しがちで、灌漑には不向きなものの、農民は重信川の氾濫を恐れて、結局はこの場所で生活せざるを得ない状態でした。

寛永7年(1630)、この地で大規模な干魃が起こったため、里正(庄屋)の今村久兵衛は、稲の作柄を調査する検見をした上で年貢を減免するよう代官に願い出ますが、聞き届けられませんでした。

そこで自暴自棄になった村人が田に火を掛け、ウンカによる虫害を後年に残さないよう不作の稲を燃やし尽くしたことから、火災を理由にした税金逃れを疑った松山藩により多数の農民が捕らえられる一大事となります(「片平騒動」)。

今村久兵衛は、これらの農民の窮状を見かねて、田に火を掛けたのは自分の一存だと藩庁に訴え出たため、多数の農民が釈放されるのと引き換えに、その身代わりとなって朝生田原(あさふだわら)で磔に処せられ、妻子は追放となりました。

時に寛永7年8月2日のことといい、処刑の直前に赦免の死者が刑場まで早馬で駆けつけたものの、扇を振りかざして処刑を中止するように求めた動作が、逆に処刑をすみやかに行なえという合図と勘違いされ、急に槍で突かれて絶命したという伝説なども残っています。

今村久兵衛の処刑からおよそ100年の年月が経った享保13年(1728)には、地元に墓が建立されるとともに百年祭が営まれ、あわせて長徳寺境内の小祠にも「若宮様」として祀られました。

今でも毎年8月には地元町内会で供養が行われているほか、市道の一つにも「きゅうべえ通り」の名が付けられ、顕彰碑も建てられています。


若宮社へのアクセス

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文中に緯度・経度の記載がある場合は、値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索すれば、その場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

若宮社 [参考リンク]

場所

愛媛県松山市古川南3丁目20-28
(この地図の緯度・経度:33.80435, 132.76325)

備考

「若宮社」は、松山市の長徳寺境内にあります。この寺院は周囲を墓地で囲まれていますが、東側に山門があり、神社は山門入ってすぐの場所に鎮座していて、解説板が掲げられているのですぐにわかります。

「今村久兵衛の墓」([地図])は、伊予市方面から県道16号の中川原橋を渡り、松山外環状道路の高架下を通って「椿神社西入口」交差点に至るまでの右手に見える共同墓地の一角にあります。墓地の入口から少し奥に進むと「今村久兵衛之墓」と書かれた覆屋があり、中に戒名の「泰岳常雲居士」や俗名・年号(享保13年)などが彫られた笠付きの墓碑が安置されています。

その他、最近(平成21年)のものですが、古川北2丁目地内の交差点脇のポケットパークに「今村久兵衛顕彰碑」([地図])が建てられており、あわせて「きゅうべえ通り Kyu-be St.」の道路標識も見られます。


参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

四国地方 今村久兵衛 片平騒動