田頭庄右衛門(田頭庄右衛門の墓)
江戸時代、伊予国越智郡の弓削島(今の愛媛県越智郡上島町)は今治藩が支配していましたが、同じ島内の上弓削村と下弓削村では免(税率)が異なり、農民の不満が高まっていたところ、宝永5年(1708)、災害が続いたことを理由に土生(はぶ)の高持百姓の五郎左衛門ら5名が庄屋に年貢の減免を願い出ます。
しかし、まったく音沙汰がなかったため、最初の5名に10名を加えて再び庄屋に願い出ますが、その際、願いが聞き届けられなければ城下に出向いて直訴すると迫ったことで、五郎左衛門は領内追放、庄右衛門は組頭を差し控え(免職)となってしまいます。
同年末、さらに庄右衛門を中心に29名の連判状をもって庄屋に年貢減免を願い出たので、庄屋から代官所に通報され、庄右衛門ら3名が斬首獄門、その倅(せがれ)も斬首、妻子は追放という過酷な刑罰を受けることとなりました。
ようやく明和元年(1764)になって、村人たちによって檀那寺の定光寺に墓が建立されました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代、伊予国越智郡の弓削島(今の愛媛県越智郡上島町)は今治藩が支配していましたが、同じ島内でも上弓削村が二ツ二歩(22パーセント)、下弓削村は二ツ七歩(27パーセント)と免(税率)が異なり、農民の不満が高まっていました。
そうしたなかで、宝永5年(1708)閏(うるう)正月、災害が続いたことを理由に下弓削村字土生(はぶ)の高持百姓の五郎左衛門が中心となり、組頭・庄右衛門らあわせて5名が庄屋に対して年貢の減免を願い出ます。
しかし、その後まったく音沙汰がなかったため、最初の5名に10名を加えて再び庄屋に願い出ますが、この際、願いが聞き届けられなければ城下に出向いて直訴する覚悟だと迫ったため、庄屋は5人を捕えて今治城下に送り、他の10名は村の土蔵に押し込めて今治藩の指図を待つこととなりました。
最終的には全員が今治に送られて入牢し、五郎左衛門は領内追放・家財闕所(没収)、庄右衛門は組頭を差し控え(免職)となってしまいます。同年11月、さらに庄右衛門を中心に29名の連判状をもって庄屋のもとに押しかけて年貢減免を要求したため、庄屋から代官所に通報があり、郡奉行・代官らが弓削島まで出張して庄右衛門らを捕縛の上で牢舎につなぎます。
宝永7年(1710)10月14日、頭取と目された庄右衛門・徳右衛門・弥兵衛の3名が弓削島において斬首獄門、庄右衛門倅(せがれ)長太良はじめ5名も連座して斬首、妻子は追放という過酷な刑罰を受けることとなりました。
「下弓削村土生騒動」「庄右衛門一揆」などと呼ばれるこの事件後、ようやく明和元年(1764)になってから、村人たちによって檀那寺の定光寺に田頭庄右衛門らの墓が建立され、他にも村の盆踊りに「庄右衛門踊り」が採り入れられるなどしています。
田頭庄右衛門の墓へのアクセス
名称
- 田頭庄右衛門の墓 [参考リンク]
場所
- 愛媛県越智郡上島町弓削土生241
(この地図の緯度・経度:34.250168, 133.204417) 備考
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「田頭庄右衛門の墓」へは、弓削大橋の先の深坂池親水公園から見て南側の山中にある定光寺を目指します。急な坂道を山頂方面に進むと定光寺に至り、山門のすぐに左脇にある地蔵菩薩の坐像がそれです。
なお、深坂池親水公園の北の角にある地蔵堂(緯度経度で 34.251612,133.205201 付近)の中にも庄右衛門の碑が石地蔵に混じって安置されています。
参考文献
- 弓削町誌 (愛媛県)
- 『今治郷土史』第3巻 近世1(今治郷土史編さん委員会編 今治市、1987年)
- 『愛媛県史』近世 上(愛媛県史編さん委員会編 愛媛県、1986年)