義民のあしあと

能美屋佐吉(七稲地蔵)



安政5年(1858)、米価高騰に苦しんだ町民たちが、金沢城下を見下ろす卯辰山に登り、金沢城に向かって「ひもじい」などと大声で泣き叫ぶ「安政の泣き一揆」が起こります。
これは暴力行為を伴わない方法で、加賀藩でも御蔵米500俵を放出し、米価の上限を設けるなどして事態は沈静化しますが、首謀者として髪結いの能美屋佐吉ら7人が捕らえられ、牢死を除く5名が刎首の上、梟首されたといいます。
のちにこの7人を供養するため、卯辰茶屋町の侠客・綿津屋政右衛門が「七稲地蔵」を観音坂に建立し、今でも見ることができます。



目次
  1. 七稲地蔵の概要
  2. 七稲地蔵へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

七稲地蔵へのアクセス

名称 七稲地蔵
場所 石川県金沢市東山1丁目31-5
(地図の緯度・経度:36.571639, 136.668389)
備考
「七稲地蔵」は、卯辰山麓の寿経寺の門前(右側)、ガラス戸のある地蔵堂のなかに安置されています。その傍らには「河原市屋文右衛門 高橋屋弥左衛門 越中屋宇兵衛 能美屋佐吉 原屋甚吉 平田屋彌兵衛 北市屋市衛門 墓」と連名になった墓碑が建立されています。
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注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の安政5年(1858)には、安政飛越地震や長雨による不作などの影響で商人による米の買い占めが進み、米価が一挙に高騰していました。

同年7月11日の夜、米価高騰に苦しむ金沢城下の町民たちが、卯辰山麓にある長谷山観音院の「四万六千日」の縁日に乗じて、山頂の庚申塚(または中腹の日暮ヶ丘とも)にまで登り、金沢城に向かって「ひもじい喰われん」などと大声で泣き叫ぶ「安政の泣き一揆」が起こります。

浅野川の対岸にある金沢城から直線距離で2キロに満たず、「向山」と呼ばれて入山が禁止されていた卯辰山に登った民衆は、7月11日に2千人、12日に5百人ともいわれ、打毀しなどの暴力行為を伴わない方法であったにもかかわらず、藩政に大きな動揺を与えました。

加賀藩でも藩主・前田斉泰の命により、御蔵米500俵を放出し、米1升の価格を100文以下に規制するなどして米価の安定に努めたため、金沢城下での事態は沈静化しますが、その後に加賀国鶴来をはじめ、越中国放生津、能登国輪島などに一揆の波は拡散し、いわゆる「三州大一揆」へと発展します。

このため、本件の首謀者として、城下の八幡町で髪結いを営んでいた能美屋佐吉をはじめ、屋根葺きの越中屋宇兵衛、日雇いの北市屋市右衛門、八幡町組合頭の原屋甚吉(善兵衛とも)、頭振(かしらふり。他領でいう水呑百姓)の河原市屋文左衛門が捕らえられ、百坂刑場で刎首の上、梟首(さらし首)となりました。

ほかに高橋屋弥左衛門、平田屋孫兵衛の2人が捕らえられた後で牢死したもとのみられ、これら7人を供養するため、のちに卯辰茶屋町の侠客・綿津屋政右衛門が観音坂の沿道に「七稲地蔵」を建立しています。

この「七稲地蔵」は明治時代になってから寿経寺に寄進されて門前に移され、7人の名前が書かれた墓碑とともに、今も大切に供養されています。

また、近年では児童文学作家のかつおきんや(勝尾金弥。愛知県立大学名誉教授)の著書『安政五年七月十一日』、歴史学者・磯田道史の著書『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』およびこれを原作にした森田芳光監督の時代劇映画『武士の家計簿』なとでも「安政の泣き一揆」が題材として採り上げられています。


参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)はリンク先下部に記載があります。リンクがない参考文献は、一般に流通していない稀覯本や私家本が多いものの、国立国会図書館で貸出をしている場合があります。

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