七稲地蔵(能美屋佐吉と安政の泣き一揆)

七稲地蔵 義民の史跡
城に絶叫しただけで処刑された犠牲者を祀る
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安政5年(1858)、米価高騰に苦しむ町民たちが卯辰山に登り、金沢城に向かって「ひもじい」などと泣き叫ぶ「安政の泣き一揆」が起こり、これが加賀・越中・能登3国にわたる「三州大一揆」の発端となりました。後に能美屋佐吉ら頭取5人が処刑されたため、供養のための「七稲地蔵」が建立されました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の安政5年(1858)には、安政飛越地震や長雨による不作などの影響で商人による米の買占めが進み、米価は一挙に高騰していました。

同年7月11日の夜、米価高騰に苦しむ金沢城下の町民たちが、卯辰山麓にある長谷山観音院の「四万六千日」の縁日の混雑に乗じて、山頂の庚申塚(又は中腹の日暮ヶ丘とも)にまで登り、金沢城に向かって「君上之御聴に入り候様、又御城下中も響き渡る様」に女子供に至るまで「ひだるき」などと大声で泣き叫ぶ「安政の泣き一揆」が起こります。

浅野川の対岸にある金沢城から直線距離で2kmに満たず、「向山」と呼ばれて入山が禁止されていた卯辰山に登った民衆は、7月11日に2千人、12日に5百人ともいわれ、石を投げ付ける程度で大規模な打ちこわしなどはなかったにもかかわらず、藩政に大きな動揺を与えました。

加賀藩でも藩主・前田斉泰の命により御蔵米500俵を放出し、米1升の価格を100文以下に規制するなどして米価の安定に努めたため、金沢城下での事態は沈静化しますが、その後一揆は加賀国鶴来・越中国放生津・能登国輪島などに飛び火し、「安政の三州大一揆」へと発展します。

本件の首謀者として、城下の卯辰町で髪結床を営んでいた能美屋佐吉をはじめ、屋根葺きの越中屋宇兵衛、日雇いの北市屋市右衛門、八幡町組合頭の原屋甚吉(善兵衛とも)、頭振(無高百姓)の河原市屋文左衛門が捕らえられ、安政6年(1859)4月13日、百坂刑場において刎首の上、見せしめにその首を晒されました。

ほかに高橋屋弥左衛門、平田屋孫兵衛の2人が捕らえられた後で牢死したものとみられ、これら7人の犠牲者を供養するため、後に卯辰茶屋町の侠客・綿津屋政右衛門が観音坂の沿道に稲を抱いた姿の「七稲地蔵」を建立しています。

「七稲地蔵」は明治時代になってから寿経寺に寄進されてまとめて門前に移され、手前にある7人の名前が書かれた明治41年(1908)建立の墓碑とともに、今も大切に供養されています。

参考文献

『金沢市史』通史編2(近世)(金沢市史編さん委員会編 金沢市、2005年)
『加賀藩農政史の研究』下巻(若林喜三郎 吉川弘文館、1972年)

七稲地蔵の地図とアクセス

名称

七稲地蔵

場所

石川県金沢市東山1丁目31番5号

備考

北陸自動車道「金沢東インターチェンジ」から車で15分。浅野川大橋交番から卯辰山へ向かう路傍にある。

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