布施村弥五郎(七里ヶ渡し)
江戸時代の元禄16年(1703)、上州沼田藩の飛び地として支配を受けていた下総国相馬郡布施村(今の千葉県柏市)では飢饉に苦しみ、年貢の減免を求めて舟戸の代官所に訴えますが、御法度の直訴にあたるとして、頭取の弥五郎は七里ヶ渡し近くの河原で打首に処せられます。
以来その場所は「弥五塚」と呼ばれるようになりますが、元文2年(1737)にも同じ「弥五塚」で布施村百姓の武左衛門が処刑されており、こちらは史実として明らかです。
大正7年(1918)、利根川流作場の耕地整理と築堤がはじまると、布施弁天の下の荒れ地として取り残されていた「弥五塚」に手を付けた地元の総代らが次々と亡くなる悲劇が起き、一種の「祟り地」として再び恐れられるようになったといいますが、今ではその場所はわからなくなってしまっています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の元禄16年(1703)、下総国舟戸藩主だった本多正永は上野国沼田藩に転封となりますが、引き続き飛び地として下総国内の旧領支配を認められます。
このように国替えで藩財政も窮乏する中で、下総国相馬郡布施村(今の千葉県柏市)を飢饉旱魃が襲ったため、布施村の百姓は年貢の減免を求めて舟戸の代官所に訴えますが、ついには領主への直訴を企てたといいます。
そのため頭取の弥五郎が捕らえられ、御法度の直訴にあたるとして七里ヶ渡し近くの河原で打首に処せられ、以来その場所は「弥五塚」と呼ばれるようになり、命日にあたる4月15日には村で供養が行われるようになったとされています。
布施村弥五郎の処刑に関しては伝承があるだけで確実な史料は残っていませんが、元文2年(1737)にも同じ「弥五塚」において、布施村百姓の武左衛門が処刑されており、こちらは村の古文書にも「武左衛門儀打首ニ被仰付候」と見えることから史実として明らかです。
武左衛門は名主の善右衛門から借金をしてどうにか年貢を納めていましたが、やがて本当に生活が困窮して村人に迷惑をかけたために舟戸代官所に訴えられ、いったん所払いと決まります。
しかし武左衛門の子の平七らは納得せず、江戸で幕府に直訴に及ぶなど騒ぎを大きくした上、所払い中の武左衛門が役人の吟味の場に推参して狼藉を働いたため、12月18日に「弥五塚」にて打首となったものです。
もともと布施村の一帯には藺沼(いぬま)という巨大な沼地や常陸川がありましたが、江戸初期の利根川東遷事業で河川の流路が変わり、沼が干上がって水田地帯となる代わりに旧常陸川にあたる利根川の水量は増え、いったん利根川が増水すると沼地だった水田の作物を流してしまうことから「流作場」と呼ばれていました。
折からの「米騒動」などを受けて、大正7年(1918)に食糧増産のため利根川流作場の耕地整理と築堤事業がはじまると、地元の布施村でも多数の人々が事業に参加することとなりますが、開発対象地には布施弁天の下の荒れ地として取り残されていた「弥五塚」が含まれていました。
小字のひとつの土屋津地区の年番をしていた人が、「弥五塚」で水の入った瓶をたまたま掘り当てたので埋め戻したところ、まもなく亡くなってしまい、その後も古谷・新田・新屋敷・荒屋敷・寺山の各地区の代表が立て続けに亡くなりました。
そこでこの水田は地元の青年団長と副団長に耕作地として譲られるものの、団長の子供が溺死、副団長一家でも死人が続出し、いよいよ「祟り地」として恐れられたため、いったん我孫子の柴崎神社に預けられ、戦後は布施地区の共有財産として引き取られることで落ち着いたといいますが、今では開発が進んでどこにあったのかわからなくなっています。
七里ヶ渡しへのアクセス
名称
- 七里ヶ渡し [参考リンク]
場所
- 千葉県柏市大青田地内
(この地図の緯度・経度:35.907999, 140.001545) 備考
- 「七里ヶ渡し」のあった場所は現在は「新大利根橋」に置き換わっていますので、橋が利根川を渡るはるか手前で降りて、堤防沿いの側道を目指して進む必要があります。現在は当時の名残はほとんどなく、二股になった鈴懸(プラタナス)の木の根元に「水神宮」と書かれた石祠があります。これは享保4年(1719)3月25日の渡し船の転覆事故で20人が亡くなったことを供養するためのもので、「弥五塚」とは直接的な関連はありません。「弥五塚」の場所そのものはこの付近というだけで、正確には不明です。また、石祠も台風水害で流木に埋もれてしまい、遠目には確認できなくなっています。
参考文献
- 近世義民年表
- 柏市史年表 (1980年)
- 柏市史〈資料編 5〉布施村関係文書 (1972年)
- 房総の秘められた話、奇々怪々な話
- 「広報かしわ」No.377(柏市市長公室広報広聴課 柏市、1977年)
- 「広報かしわ」No.257(柏市市長公室広報広聴課 柏市、1972年)