宅和伊助翁神霊碑(宅和伊助と神門郡強訴)

宅和伊助翁神霊碑 義民の史跡
飢饉に際し藩庁に訴え獄門となった庄屋を祀る碑
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享保17年(1732)、出雲国神門郡松寄下村庄屋・伊助と荒木村庄屋・源左衛門(いずれも今の島根県出雲市)は、蝗害による年貢減免を松江藩庁に訴えました。しかし、検見のために出張してきた藩役人が到着するよりも前に、地元百姓によって勝手に稲が刈り取られていたため、2人は捕らえられて斬罪となり、源左衛門は荒木村の万屋橋で、伊助は松寄下村の高瀬川畔で7日間にわたり獄門に懸けられました。昭和5年(1930)、宅和伊助の子孫によって伊助屋敷跡に「宅和伊助翁神霊碑」が建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代中期の享保17年(1732)、松江藩領の出雲国10郡では蝗害によって29万石見込みのうちの17万4,320余石の青稲が被害を受けました。

当時は豊凶にかかわらず毎年の年貢率が同じ「請免制」(定免制)が導入されていたため、神門郡松寄下村の庄屋・伊助と荒木村の庄屋・源左衛門は松江まで出向き、作柄を調査する「検見」をした上で年貢を減免するよう藩庁に訴えました。

しかし、検見のために出張した藩の役人が現地に到着すると、既に藩庁の許しを得たものと誤解した地元の百姓によって、勝手に稲が刈り取られた後でした。

藩は虚言を弄して一揆を企てたとして2人を捕らえ、享保18年(1733)2月に斬罪に処し、源左衛門は荒木村の万屋橋で、伊助は松寄下村の高瀬川畔で7日間にわたり獄門に懸けたといいます。

松江藩代々の藩儒・桃家の養子となった桃好裕が編纂した歴史書『出雲私史』には、「神門民群集。逼松江争訟。乃捕党魁源左衛門伊助。誅而梟之。」とあり、松江に押し掛け強訴をした一揆の頭取として、伊助と源左衛門の2人を処刑の上で梟首したと簡潔に語っています。

伊助は処刑されるに当たり「竹は八月木は九月、伊助の首は今が斬り時」と言い残したと伝えられ、松林寺に仮埋葬された遺骸は後難を恐れた親族によりしばらく放置されていましたが、後に宅和家の墓地に葬られたということです。

昭和5年(1930)、伊助の義挙を顕彰するため、子孫の手によってかつての屋敷跡に「宅和犠牲神霊」と刻む碑が建てられました。

参考文献

『出雲平野の義民―歴史の底辺に埋れた名もなき農民の英雄たち―』(倉塚正 カメタニ書店、1983年)
『出雲市誌』(出雲市編 出雲市、1951年)
『出雲私史』下(桃好裕 博広社、1892年)

宅和伊助翁神霊碑の地図とアクセス

名称

宅和伊助翁神霊碑

場所

島根県出雲市松寄下町地内

備考

山陰自動車道「出雲インターチェンジ」から車で5分、薬師寺境内東隅の隣接地に所在する。高松クラブによる解説碑がある。

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