白井半左衛門供養塔(白井半左衛門の義民伝承)

白井半左衛門供養塔 義民の史跡
用水路の無断工事で死罪となった庄屋の供養塔

享保16年(1731)、丹波国多紀郡福住村(今の兵庫県丹波篠山市)庄屋の白井半左衛門は、私費をもって福住の集落に灌漑・防災用水を開削しましたが、藩に無断の工事であるとして大庄屋に訴えられ、篠山藩により死罪闕所に処せられました。現地には白井半左衛門を供養するための宝篋印塔が建っています。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代中期、丹波国多紀郡福住村の庄屋・白井半左衛門は、川の上流(『多紀郷土史考』には「柼木うとぎ川」とあります)から溝を掘り、灌漑と防火を兼ねて福住の集落に水を流す工事を始めました。

しかし、同じ村に住んでいた大庄屋の荻田三太夫はこれに反対し、無断で工事を行ったとして丹波篠山藩に訴え出ました。

この結果、大庄屋を蔑ろにするのは藩を蔑ろにすることと同じとして、白井半左衛門は奉行所から死罪闕所を申し渡されました。

半左衛門が処刑されたのは享保16年(1731)12月25日のことで、死に臨んで「災害のあった時に思い知るだろう」と叫んだといい、果たして寛延元年(1748)7月、福住の町で52軒を焼く大火が起こりますが、このとき白馬に跨った半左衛門の姿を目撃した者が多数現れました。

そこで同年、福住の禅昌寺に村中で白井半左衛門の供養塔として宝篋印塔を建立することとなり、これが現在も禅昌寺境内に残されています。

もっとも、その後福住では寛政11年(1789)に9軒、文化6年(1810)に83軒を焼く火災が起きており、これも半左衛門の怨霊の仕業とされています。

国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された福住地区の住吉神社入口には、宝永6年(1709)に寄進された永代常夜灯1対が残されており、うち1基は三箇村氏子中、もう1基には白井半左衛門の銘が刻まれ、常夜灯を個人で寄進できるほど富裕であったことが伺わます。

参考文献

『多紀郷土史考』下巻(奥田楽々斎 多紀郷土史考刊行会、1958年)
『角川日本地名大辞典』28 兵庫県(「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店、1988年)

白井半左衛門供養塔へのアクセス

名称

白井半左衛門供養塔

場所

兵庫県丹波篠山市福住274番地

備考

舞鶴若狭自動車道「丹南篠山口インターチェンジ」から車で25分、国道372号沿いにある禅昌寺の山門脇に宝篋印塔が建っている。

関連する他の史跡

❶住吉神社
❷福住伝統的建造物群保存地区

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