義民のあしあと

中祖村安左衛門(義農安左衛門の碑)



安芸広島藩5代藩主・浅野吉長の藩政改革では、豪農を所務役人・頭庄屋に任命し、定免制を採用するなどの農村支配の強化が図られたため、享保3年(1718)、これに反発した領内百姓が頭庄屋の屋敷などを打ち毀す「享保三年一揆」が勃発します。
この一揆は安芸・備後両国に広がり、30万人が参加したともいわれますが、山県郡内をまとめた頭取の一人が中祖村(今の広島県山県郡北広島町)安左衛門でした。
一揆は頭庄屋の罷免や土免制の復活などの要求を広島藩に認めさせましたが、安左衛門は捕らえられて享保3年(1718)11月9日に処刑され、中祖村で獄門に架けられました。
昭和43年(1968)、明治百年を記念して、安左衛門が獄門に架けられた場所に「義農安左衛門碑」が建立され、かつての藩主の末裔にあたる浅野長武が題字を揮毫しています。



目次
  1. 義農安左衛門の碑の概要
  2. 義農安左衛門の碑へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

義農安左衛門の碑へのアクセス

名称 義農安左衛門の碑
場所 広島県山県郡北広島町中祖地内
(地図の緯度・経度:34.72185, 132.24384)
備考
「義農安左衛門の碑」は、国道186号石見街道から南に500メートルほど芸北国際スキー場方面に入った町道沿いに建っています。碑の手前には別の解説用の石碑と観光マップの掲示物があります。
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注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

義民伝承の内容と背景

安芸広島藩5代藩主・浅野吉長の時代には、窮乏する藩財政を立て直すため、若い藩主を中心にさまざまな藩政改革が行われます。
特に「正徳新格」として、従来の代官制を廃止するとともに有力農民を所務役人・頭庄屋に任命したり、年貢の税率を固定する定免制を採用したりといった、農村支配の強化が図られたのもこのころでした。

このような中、すでに広島藩に隣接する福山藩、次いで支藩の三次藩では、夏の旱魃と秋の長雨による凶作に端を発した大規模な百姓一揆が勃発していました。
享保3年(1718)にはいよいよその波が広島藩領にも飛び火して、3月12日に備後国三上郡本村(今の広島県庄原市)の百姓が蜂起したのを皮切りに、備後国・安芸国の30万人が参加したともいうほぼ全藩規模の「享保三年一揆」へと発展します。

この一揆では安芸国山県郡有田村(今の広島県山県郡北広島町)の吉左衛門、中祖村(同町)の安左衛門らが頭取となり、頭庄屋の屋敷の打ち壊しなどを行ったほか、広島藩に対しても25か条の要求(願書)を突き付けます。

広島藩では所務役人・頭庄屋を罷免するとともに、定免制を廃止して土地の生産力や作柄に応じた土免制に復することや、年貢を減免することなどを定めた「御宥状」を発布して、一揆の沈静化を図りました。

しかし百姓らの要求を受け入れただけでは終わらず、広島藩ではその後に大々的な一揆の首謀者の責任追及を行い、中祖村安左衛門は享保3年(1718)7月に捕縛されて本地村の牢に入れられます。
11月9日、安左衛門は石井谷城ヶ峠(じょうがたお)の下河原において62歳で斬首され、その首は中祖村の村境の制札場に晒されたほか、家財は没収となりました。
この一件では中祖村安左衛門をはじめとして、獄門や討首、永牢、追放などの刑罰を受けた者が多数に上ったほか、刑罰を逃れるために欠落した者もありました。

昭和43年(1968)、明治百年を記念して、安左衛門が獄門に架けられた場所に「義農安左衛門碑」が建立され、かつての藩主の末裔にあたる浅野長武が題字を揮毫しています。


参考文献・参考資料


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