義民のあしあと

平井村太兵衛




義民伝承地の概要

寛文8年(1668)、重税にあえぐ宇陀松山藩領の平井村庄屋太兵衛と五津村庄屋甚七郎(ともに今の奈良県宇陀市)は、百姓の連判状を持って江戸に赴き、藩主の織田長頼に対する越訴を行います。

「願いの趣旨は聞き届けたので藩主が帰国してから追って申し付ける」といわれて喜んで帰ったものの、かえって「殿中で恥辱を与えた」として呼び出され、太兵衛・甚七郎と子供3人の合わせて5人が死罪となります。

この事績は長く伝えられ、昭和46年(1971)に地元及び宇陀ライオンズクラブによって2人の庄屋を讃える石碑が建立されました。

平井庄屋太兵衛碑の地図

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名称 平井庄屋太兵衛碑
所在地 奈良県宇陀市菟田野平井地内
備考 「平井庄屋太兵衛碑」は、菟田野平井地内の市道沿いにあります。途中には特に道先を案内する表示はありません。現地には「平井庄屋太兵衛碑」の看板が出ており、まだ新しい五輪塔や墓誌のようなものが建っています。
参考リンク [クリックして遷移]

  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

宇陀松山藩では3代藩主・織田長頼の時代、中山正峯らの政策により、原野荒蕪地の開拓や農民に対する高利貸し、紙幣(藩札)発行などで正租外収入の増加を図りますが、農民の側では負担が増大し困窮するようになります。

そこで寛文8年(1668)、百姓惣代として平井村庄屋太兵衛と五津村庄屋甚七郎(ともに今の奈良県宇陀市)が連判状を持って江戸に赴き、藩主の織田山城守長頼に対して越訴を行います。

その際の返答として「願いの趣旨は聞き届けたので藩主が帰国してから追って申し付ける」といわれて喜んで帰ったものの、かえって呼び出しの上で「惣百姓どもは江戸に下り殿中にて恥辱をあたえた」と詮議され、太兵衛・甚七郎と子息3人の合わせて5人が死罪となります。

平井村庄屋太兵衛は別所川原で処刑されますが、この事績は長く地元に伝えられ、昭和46年(1971)に地元及び宇陀ライオンズクラブによって2人の庄屋を讃える石碑が建立されました。

参考文献・参考資料


リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

 

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