義民のあしあと

森武七




義民伝承地の概要

天保7年(1836)、米価高騰により飢餓に苦しむ農民を救済するため、甲斐国都留郡下和田村(今の山梨県大月市)の森武七(森治左衛門、次左衛門、下和田村治左衛門とも呼ばれる)は、犬目宿(山梨県上野原市)の水越兵助と謀り、多数の農民を集めて威圧の上で米商人からの穀借り(米の押し借り)をしようとします。

ところが途中から暴徒化し、統制が取れぬまま甲斐国全体にわたる打ちこわしへと発展しました。

この事件は「郡内騒動」「甲斐国天保騒動」あるいは「甲州騒立」などと呼ばれ、後に参加した多数の農民が磔、死罪を含めた刑罰を申し付けられています。

森武七は暴徒化により目的達成が困難と悟った段階で帰村していましたが、代官所に自首したために石和牢舎に送られ、同年11月16日に牢死しています。

後に供養のための墓が営まれ、現在では大月市指定文化財となっています。

森武七墓の地図

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名称 森武七墓
所在地 山梨県大月市七保町下和田地内
備考 「森武七墓」は、ちょうど笹子川をまたぐ中央自動車道の高架橋の真下付近に位置していますが、高速道路拡幅に伴い移設されたものです。県道505号からの降り口には「森武七墓」と書かれた茶色の小さな案内板が建っており、付近に参拝者用の駐車場も整備されています。墓には表面中央に森武七の戒名「的翁了端信士」が刻まれ、嘉永年間に亡くなった妻の戒名がその隣にあります。
参考リンク [クリックして遷移]

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  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

江戸時代の天保年間には冷害により全国的な飢饉が発生しており(天保の飢饉)、甲斐国内では山がちで米が穫れず買米に頼っていた郡内地方の被害が深刻でした。
そのようななかでも、谷村(やむら。今の山梨県都留市)の米穀商たちは米の買い占めを行ったために米価が高騰が発生し、農民たちの怨嗟の的となっていました。

天保7年(1836)8月17日夜、下村で近隣の百姓による打ちこわしが発生し、谷村代官所により事態の収拾が図られます。
これと時を同じくして、米価高騰により飢餓に苦しむ農民を救済するため、甲斐国都留郡下和田村(山梨県大月市)百姓・森武七(武七は通称のため、本名で森治左衛門、次左衛門、下和田村治左衛門とも呼ばれる)が立ち上がります。

森武七はすでに70歳の高齢で、周辺の博徒らを手懐けて「親方」と呼ばれる存在だったといいますが、総頭取として推され、もう一人の頭取である犬目宿(山梨県上野原市)の水越兵助、それに中初狩宿(山梨県大月市)の伝兵衛、大椚(おおくぬぎ)村(山梨県上野原市)の八右衛門が加わり、多数の農民を集めて威圧の上で、米商人から穀借り(米の押し借り)をしようと目論みます。

郡内からの一揆勢は黒野田宿(山梨県大月市)の医師だった泰順が作成した「連判評定の事」という規律にもとづき統制が取れた行動をしており、実際に周辺の村々の名主・長百姓から年番で選ばれて代官所に在勤していた郡中惣代を通じて米価引き下げの交渉などもしています。
しかし、笹谷峠を越えて国中(くになか)地方に至ることろになると、初鹿野村(はじかのむら。山梨県甲州市)長百姓・義右衛門らの一団が駒飼宿の米穀商を打ちこわしたのを皮切りに、長浜村(山梨県南都留郡富士河口湖町)無宿民五郎をはじめとした「悪党」と呼ばれる無宿人などが参加し、主導権を奪って暴徒化します。
そのため武七や兵助は熊野堂村(山梨県笛吹市)の豪商・小河奥右衛門の屋敷を打ちこわしたのを最後に、目的達成の困難を悟って途中で帰村しています。

武七が脱落した後、長浜村無宿民五郎は盗み取った女帯を襷(たすき)に締めて目印にし、一揆の頭取として「乱妨」を指揮し、甲斐国全体にわたって商人宅の打ちこわし・借金証文の焼き捨て・放火・衣類や金品の恐喝を繰り広げ、甲府勤番の手勢をも撃退するなどして信濃国境まで迫ります。

この事件は「郡内一揆」「郡内騒動」「甲斐国天保騒動」あるいは「甲州騒立」などと呼ばれ、信濃国高島藩の出兵などにより鎮圧されるまで、打ちこわしの被害は300軒以上を数え、後に参加した多数の農民や無宿人らが磔・死罪・遠島・追放などの処分を受けていますが、実際に処刑される前に牢死者が続出するなど、過酷な取り扱いをされたことが伺えます。
いっぽう、甲府勤番支配の氷見伊勢守をはじめ、甲府勤番や各代官も責任を問われて「其砌不束之至」として御役御免や逼塞の処分を受けたほか、一揆に参加した村々には過料が課せられ、有徳人からも冥加金が集められて、これらを原資とした貧農救済や向こう3年間の年貢の減免も行われました。
この一揆は支配層にも衝撃を与え、水戸藩主の徳川斉昭も将軍・徳川家慶に提出した意見書『戊戌封事』のなかに「近年参州甲州の百姓一揆徒党を結ひ又ハ大坂の奸賊容易ならざる企仕猶当年も佐渡の一揆御座候ハ畢竟下〻にて上を怨み候と上を恐れざるより起り申候島原騒動の後二百年……」と言及しています。

一揆の際に途中で帰村していた森武七は、追っ手が迫ったため観念して代官所に自首し、石和牢舎に送られますが、同年11月16日に牢死しています。
すでに亡くなってしまったはずの武七もまた、最終的な判決では「存命に候得は」石和宿において磔の極刑に値するとされ、後に供養のために営まれた武七の墓は、現在では大月市指定文化財となっています。

村に帰る途中で武七と分かれた犬目の兵助のほうは、その後も逃避行を続け、滞在先の農家でそろばんを指南するなどして路銀を稼ぎつつ、四国八十八箇所の遍路旅や上総国木更津での潜伏を経て、密かに犬目宿に戻って隠遁生活を送っていたといい、地元には兵助の逃亡日記が残されています。

参考文献・参考資料


リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

 

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