義民のあしあと

吉田新兵衛




義民伝承地の概要

江戸時代の文政5年(1822)、宮津藩では重税に反発した百姓による大規模な一揆「宮津藩文政一揆」が勃発し、一揆勢は大庄屋の屋敷などを打ち毀しながら宮津城下に押し寄せます。

家老の栗原理右衛門の名代として派遣された子の栗原百助らが慰撫して一揆はおさまりましたが、その後の藩の追及は厳しく、文政7年(1824)4月、一揆の首謀者とされた吉田新兵衛が打首、義弟の吉田為次郎が獄門となりました。

天保3年(1832)、吉田新兵衛・吉田為治郎の両氏を追悼するため、多くの百姓が資金を出し合い、平地峠に高さ5.3メートルという巨大な地蔵菩薩の立像が建立され、今でも「平地地蔵」として知られています。

平地地蔵の地図

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名称 平地地蔵
所在地 京都府京丹後市大宮町上常吉地内
備考 「平地地蔵」は、京都府道76号野田川大宮線の平地峠(平智峠)にあります。周囲は「平地地蔵公園」として整備されていて駐車場があり、地蔵の裏手に常林寺(北方2キロ先)別院の「地蔵院」の建物が建っているのですぐにわかります。府道から徒歩で上る参道の石段も残っています。

「文政一揆蜂起の地」の木柱は、国道176号「中地」交差点を西に折れて500メートル先、野田川に架かる嘉久屋橋のたもとの草むらの中にあります。(緯度経度で 35.5331,135.1166)

「義士義民追頌碑」は、天橋立に向かう京都府道2号宮津養父線沿いにあります。天橋立オートキャンプ場を過ぎて涙ヶ磯に至る途中の府道のカーブにさしかかるあたりですが、周囲は樹叢に覆われた山の斜面なので見通しはあまり良くありません。(35.5541,135.1869)

「犬の堂の碑」は、国道176号沿い「与謝の荘」の角から枝道を少し入ったところにあります。これは天橋立の知恩寺(文殊堂)と戒岩寺との間を走ってお使いをしていた忠犬が亡くなったため、供養のために堂を建てたという伝説を記した石碑で、儒学者の林春斎(林鵞峰)が撰文し、宮津城主・永井尚長が建てたものです。したがってかつての「犬の堂」の場所はこの付近ですが、石碑自体は道路整備で移転するまでは丘の上にありました。(35.5449,135.1893)
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  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

江戸時代後期の文政年間、宮津藩主・松平宗発(むねあきら)(本庄宗発)は、接待や賄賂による猟官運動の末に幕府の寺社奉行加役(兼務)にまで出世しますが、こうした出費がかさんだことに鑑み、儒者の沢辺北溟(沢辺淡(談)右衛門)らにより藩財政の立て直しが行われます。

すなわち、領内の富裕者25名を選んで1万5千俵もの「追先納米」(すでに行われていた「先納米」と呼ばれる年貢の前払いをさらに追加したもので、結局は百姓に負担が割り当てられる)を賦課したほか、「万人講」と称して領民に1日3文ずつの日銭を貯蓄させ、庄屋を通じて藩に上納させる実質的な人頭税を導入しました。

石川村奥山(今の京都府与謝郡与謝野町)の吉田為治郎は、百姓から集めた税の一部が取りまとめ役である庄屋の役得となっていることを藩士の関川権兵衛(家老・栗原理右衛門の異母弟)から聞き、従兄弟の吉田新兵衛らと相談の上で、村々に檄文を回して藩に強訴することを企てます。

こうして文政5年(1822)12月13日の深夜、石川村と山田村の村境にあたる河原(今の野田川に架かる嘉久屋橋付近)でかがり火が焚かれたのを合図として、宮津藩最大の一揆といわれる「宮津藩文政一揆」が勃発、一揆勢は石川組大庄屋・芦田庄兵衛の屋敷などを襲った後、犬の堂口(今の宮津市杉末)の番人の屋敷に放火して宮津城下になだれ込み、町名主をはじめとする豪商の屋敷も打ち毀して回ります。

大手門前に集まった百姓を見て驚愕した宮津藩では、百姓の信望の厚い江戸家老・栗原理右衛門を急遽登城させて一揆を鎮圧させることとしますが、栗原理右衛門は高齢な上に江戸から国許に帰ったばかりであったため、子の栗原百助が名代として派遣されて百姓の説得にあたります。

そこで藩側では万人講の廃止、追先納米の免除、貧農対策として米千俵の放出などを約束し、書き付けとして交付したことから、18日朝までには領内120か村、3万人とも5万人ともいわれる百姓が参加した「宮津藩文政一揆」はようやくおさまりました。

しかしながら、その後の宮津藩の対応は厳しく、江戸から家老の有本助左衛門が派遣されて責任者の捕縛や詮議がはじまり、文政7年(1824)4月22日には犬の堂において吉田為治郎が獄門、吉田新兵衛が討首(打首)となり、他にも永牢や所払などの処罰を受けた者が多数に上りました。

役人側では関川権兵衛が百姓を唆したとして死罪、栗原理右衛門と百助父子も勝手に触書を出したとして入牢となり、一揆の発端をつくった沢辺北溟には御役御免と蟄居が命じられています。

なお、栗原百助は無実を訴えるために足軽の協力を得て揚り屋から脱獄し、江戸藩邸に向かう途中、宮津藩の飛び地だった近江八幡の西光寺で追手に囲まれ、逃れられないと見るや住職に遺書を渡して切腹して果てました。

天保3年(1832)、吉田新兵衛・吉田為次郎の両氏を追悼するため、多くの百姓が資金を出し合い、表向きは先祖供養と道中安全のためという名目で、平地峠に高さ5.3メートルもの巨大な地蔵菩薩の立像が建立されました。

地蔵尊に至る参道の石段は、35歳で命を落とした吉田新兵衛にちなんで35段あるといい、今でも毎年11月23日の勤労感謝の日には、雪深いこの地方ならではの行事として、地蔵に頭巾と蓑を着せる「平地地蔵の蓑着せ」が行われています。

「平地地蔵」はこれまで単なる道中安全祈願の地蔵尊と見られていましたが、地元の郷土史家の安田正明・千恵子夫妻(元教員)が常林寺文書の研究により一揆との関わりを発掘し、この話を題材にした絵本『新兵衛じぞう』も刊行されています。

「宮津藩文政一揆」の経緯については、すでに江戸時代にも前代未聞の騒動として『宮津騒動夢物語』、『農民蜂起与謝噺』、『宮津事跡記』などに書き留められ、今日でも『丹後史料叢書』に見ることができますが、大正時代に入ると吉田新兵衛・吉田為治郎の2人は義民として積極的に顕彰されるようになり、両名の菩提寺にあたる福寿寺(与謝野町石川2447)で百年忌の法要が営まれたほか、老翁坂(今の宮津市文殊)には頭山満揮毫の「義士義民追頌碑」が建立されました。

参考文献・参考資料


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