義民のあしあと

蒲戸砂川(人頭税石)



1854年、琉球国の多良間島では、役人が不正に税を取り立てて私服を肥やしていたことから、蒲戸砂川らあわせて5人がこの離島から渡海して王府に直訴状を提出、調査の結果不正が明らかとなり、役人が処分される「多良間騒動」が起こりました。蒲戸砂川らは命を惜しまず島民の苦難を救ったとして官位を授けられています。
この騒動と直接的な関係はありませんが、隣接する宮古島には、子供が成長して身長がこの石の高さを超えると人頭税を賦課されたという「人頭税石」が残っています。


目次
  1. 人頭税石の概要
  2. 人頭税石へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献



人頭税石へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

人頭税石 [参考リンク]

場所

沖縄県宮古島市平良荷川取地内
(この地図の緯度・経度:24.8127, 125.2818)

備考

「人頭税石」は、平良港やライフマンション3近くの公道沿いにあり、入口に「人頭税石 Nintozeiseki」の道路標識が、石の脇に解説板が建てられています。ただし、この「人頭税石」の伝承は史実とは異なるという疑問が提起されていますので、詳しくは本文を参照してください。


義民伝承の内容と背景

近世には日本全国で百姓一揆が勃発し、その犠牲者が義民として顕彰される事例が数多くみられます。
しかし、沖縄地方については記録に残るものがほとんどなく、強いていえば次のような事例が挙げられます。

  • 『川充氏家譜』によれば、1678年、人頭税に反対して騒動を起こした「多良間島族党」が親泊筑登之親雲上・平良親雲上らによって捕縛された。
  • 1854年、多良間島の島民5人が役人の不正を王府に直訴する「多良間騒動」(または「アコーメ事件」「アカウメー事件」)が起こり、事実が判明して役人が処分された。
  • 1860年、琉球は小国で重税に困憊しているので早く大和に帰属させて島民を救ってほしいという趣旨の直訴状を薩摩商人に託して薩摩在番奉行所に届けようとした「落書事件」が発覚し、首謀者として島尻与人(村役人)だった波平恵教が捕らえられてパイナガマで処刑された。

このうち「多良間騒動(アコーメ事件)」が起きるまでの経緯ですが、1849年には農民から割り増しに徴税して私服を肥やしていた宮古島の役人らが惣横目・本村朝祥に摘発される「割重穀(わりかさみこく)事件」が発生したほか、1852年の「子年大飢饉」、1854年の大風による被害といった自然災害も相次ぐ状況でした。

このような中で、多良間島ではなおも砂川大主(うふぬし)らの役人が本来よりも余計に徴税する不正を働いていたため、1854年(清の咸豊4年、日本の嘉永7年)、蒲戸砂川・麻加路仲筋・三戸狩俣・山戸来間・仁牛仲筋の5名は、島のトカハナ山中で謀議を凝らし、筆跡を隠すために足の指に筆を挟んで訴状を認めると、時期を見計らって小舟に乗って島を脱出し、宮古島に置かれた蔵元(地方政庁)の頭越しに首里王府への直訴を企てます。

離島の多良間島から首里城までは直線距離で350キロほども離れていましたが、5人は出港してから8日目にしてようやく沖縄本島の金武の浜で漁師に発見され、王府に直訴状を提出することができました。

翌1855年3月、訴状を受けた王府では松川里之子親雲上(さとぅぬしぺーちん)朝堯らを多良間島に派遣して取り調べたところ、役人の不正が明らかとなったため、役人は法にしたがって処罰されました。

いっぽうで琉球国の正史『球陽』には、「不惜性命、跋渉遠來、以拯島民之苦」(性命を惜しまず、跋渉遠来して、以て島民の苦を拯(すく)う)として、直訴をした蒲戸砂川ら5名すべてに「筑登之座敷(ちくどぅんざしき)」の位階を賜り、その労苦をねぎらったと書かれています。

もっとも、5人のうち仁牛仲筋を除く4人は大主と呼ばれるようになってから横暴な振る舞いがあったとして百姓(平民)に訴えられ、来島した穿鑿方総横目・狩俣首里大屋子や友利首里大屋子らの取り調べの後、1858年には来間島への遠島(流罪)に処せられています。

多良間島の隣の宮古島には「人頭税石(にんとうぜいせき)」と呼ばれる石柱がありますが、民俗学者の柳田国男は『海南小記』に「少年を此傍に連れて来て背丈を検し、石より高く為って居たら人頭税を課し始めたものだと伝へて居る」と記し、かつての琉球王国時代の過酷な人頭税制度の様子を伝えています。

ただし、人頭税は15歳から50歳の男女に穀物や反布の貢納を割り当てたものであり、すでに戸籍が整備されている以上は身長で測る必要に乏しいことから、仲松弥秀はニライ神へのお通し(遥拝)標石と、黒島為一は天空上の物体を計測するための石(星見石)と推測するなど、伝承の根拠は揺らいでいます。



参考文献・参考資料


リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。



百姓一揆と義民の研究
保坂 智 (著)
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