照山修理(照山修理の墓)
寛永18年(1641)、水戸藩の寛永検地にあたり、常陸国多賀郡金沢村の庄屋・照山修理(しゅり)は、百姓永代の難儀になるとして検地に反対して強訴に及んだため、村境において磔刑に処せられました。しかし、藩でも検地の際に縄延びさせて課税面積が少なくなるように配慮したことから、後に菩提寺の長清寺(現在の長福寺)境内に墓が建てられるとともに、恩義に感じた村人たちによって、正月・5月・9月の年3回、「修理念仏」による供養が行われるようになったといいます。
義民伝承の内容と背景
寛永18年(1641)、水戸藩の寛永検地にあたり、常陸国多賀郡金沢村(今の茨城県日立市)の庄屋・照山修理(しゅり)は、「百姓永代の難儀」になるとして検地に反対します。
水戸藩一円で行われた検地のため、藩でも取り合わなかったところ、たびたび願い出る行為が「強訴」とみなされ、同年7月26日、弟・主税、次男・新次郎とともに村境の塙山において磔刑に処せられました。
しかし、藩でも一身を捨てて村に尽くした照山修理の行為を慮って、検地の際に意図的に縄延びさせて、課税される面積が少なくなるように調整したといいます。
後に子孫によって菩提寺の長清寺(現在の長福寺)境内に墓が建てられるとともに、恩義に感じた村人たちが正月・5月・9月年3回の念仏供養を行うようになり、これは「修理念仏」と呼ばれるようになりました。
文政10年(1813)に水戸藩の高倉胤明(高倉逸斎)が著した『田制考証』の中に、検地奉行だった野沢太郎左衛門・跡部太郎兵衛の両名が正保元年(1643)に切腹を申し渡された記事があり、原書に添付されている張り紙には「金沢村百姓とも強訴いたし頭取三人に右村にて御仕置被二仰付一、其後御縄打直しに成候由」、つまりは強訴による検地のやり直しが理由となって郡奉行がその責任を問われたとの推測が書かれています。
この事件は『田制考証』をはじめとして、異同はあるものの、同じく水戸藩の儒学者・石川久徴(石川桃蹊)が文政10年(1827)に著した『桃蹊雑話』などの江戸時代の史料にいくつか登場しています。
明治時代に入ると、自由民権運動に共感して茨城県議会議員、次いで衆議院議員となった県内出身の政治家・野口勝一による顕彰が行われるようになり、明治28年(1895)に長福寺境内に「照山修理碑」が建てられました。
この碑文では、照山修理の先祖は鎮守府将軍・藤原秀郷や那珂通辰に連なる血筋であり、父の照山主水正昭広のとき佐竹氏に属して金沢村に土着したと伝え、さらに水戸藩2代藩主・徳川光圀が領内を巡視した際に照山修理の旧宅を訪れて四足門を建てる特別待遇を許したことや、刑場跡に3義民の塚が築かれたことなども記しています。
照山修理の墓へのアクセス
名称
- 照山修理の墓 [参考リンク]
場所
- 茨城県日立市金沢町2丁目18-8
(この地図の緯度・経度:36.5445, 140.6143) 備考
- 「照山修理の墓」は、日立市の金沢葬祭場に隣接する長福寺の境内墓地にあります。いったん本堂前まで石段を登ると、本堂左手に広がる墓地の入口に、明治28年(1895)に建てられた「照山修理碑」が建っています。ここから墓地内に続く通路をそのまま歩いていくと、山際にある日立市保存樹スダジイの切り株の根元に「照山修理の墓」の案内板が出ています。この墓碑は寛文3年(1663)に建てられたもので、表面に「太壽源真居士」とあります。
参考文献
- 桃蹊雑話 (1979年)
- 『新修日立市史』上巻(日立市史編さん委員会 日立市、1994年)
- 『近世地方経済史料』第8巻(小野武夫編 吉川弘文館、2013年)
- 『近世史の研究』第4冊 幕府と諸藩(伊東多三郎著 吉川弘文館、1984年)
- 『碑文双書』(一)碑文・墓碑銘集 茨城縣内版(鈴木健夫・田代辰雄編著 サン企画、2008年)