義民のあしあと

佐々木弥五兵衛(三閉伊百姓一揆指導者切牛(佐々木)弥五兵衛の墓)



弘化4年(1847)、藩主・南部利済の悪政に耐えかねた三陸沿岸の野田通・宮古通・大槌通、いわゆる「三閉伊通」の農民1万2千人は、新税撤廃などを求めて一揆を起こします。
このとき頭取となったのが高齢の佐々木弥五兵衛で、全藩一揆を実現するため十数年にわたり領内を回って農民の説得を続け、「小本の祖父」と慕われたと伝わっています。
これを「弘化三閉伊一揆」といいますが、藩庁がある盛岡は無視して家老の遠野南部家に強訴した結果、要求の一部は認められました。
しかし、弥五兵衛はこの時点で藩が約束を破ることを見越しており、次の一揆に向けた活動をしていた最中に密偵に捕まり、盛岡に送られて牢死(実際は斬首されたといわれる)しています。
この弥五兵衛の遺志は、畠山太助や三浦命助ら新たな指導者により、「小○」(「困る」)の旗を掲げた「嘉永三閉伊一揆」として結実し、南部利済の江戸謹慎を含め、農民側の要求の多くが認められました。
現在、弥五兵衛の故郷の切牛地区(今の岩手県下閉伊郡田野畑村)には、弥五兵衛とその妻の墓、および生家の跡が残されているほか、田野畑村民俗資料館では弘化・嘉永の2つの三閉伊一揆についての資料を展示しています。


目次
  1. 三閉伊百姓一揆指導者切牛(佐々木)弥五兵衛の墓の概要
  2. 三閉伊百姓一揆指導者切牛(佐々木)弥五兵衛の墓へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献



三閉伊百姓一揆指導者切牛(佐々木)弥五兵衛の墓へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

三閉伊百姓一揆指導者切牛(佐々木)弥五兵衛の墓 [参考リンク]

場所

岩手県下閉伊郡田野畑村切牛地内
(この地図の緯度・経度:39.899973, 141.942449)

備考

「三閉伊百姓一揆指導者切牛(佐々木)弥五兵衛の墓」は、島越黎明台団地の南側にあり、岩手県道44号岩泉平井賀普代線沿いに入口を示す縦長の看板が出ています。実際の弥五兵衛の墓はここから西に70メートルほど入った畑地の際にあり、弥五兵衛の墓に隣接して妻の墓があります。墓地にも教育委員会が作成した案内板が建っていますのですぐにわかります。

「切牛弥五兵衛生誕の地」は、県道沿いの墓地入口看板から100メートルほど南にあり(39.8990, 141.9431)、現在は畑地で建物は何もなく、教育委員会の案内板のみが掲示されています。



義民伝承の内容と背景

盛岡藩第12代藩主の南部利済(としただ)は、幕府からロシアの南下にともなう蝦夷地警備を命じられるなどして藩財政が逼迫する中、家老の横沢兵庫を重用して殖産興業政策を推進します。

しかし、盛岡城本丸御殿の改築(「聖長楼」)や津志田遊郭の開設などの無駄な事業も多く、領民が凶作であえいでいるにもかかわらず、その財源を御用金などの負担で賄おうとしたことから、弘化4年(1847)、ついに三陸沿岸にあたる野田通・宮古通・大槌通のいわゆる「三閉伊通」の農漁民1万2千人が蜂起する「弘化三閉伊一揆」を引き起こします。

もともと三閉伊地域は山がちな地形と冷涼な気候のために米作の生産性が低く、漁業や林業、鉱業、製塩業などで生計を立てる者が多かったところ、盛岡藩による専売制の強化や御用金の臨時徴収といった施策は、まさにこの地域の農漁民の生活を直撃するものでした。

このとき惣頭人となったのが、史料により差があるものの70歳近くの高齢という佐々木弥五兵衛で、盛岡藩領の陸奥国閉伊郡下岩泉村切牛(今の岩手県下閉伊郡田野畑村)または小本村(今の下閉伊郡岩泉町)出身といわれ、「万六」の別名をもっていました。

弥五兵衛は公事師として訴訟代行の業務に携わるとともに、塩や海産物を牛に載せて内陸に運び雑穀と交換する牛方の商売を通じて、十数年にわたり領内の各村をくまなく回り、盛岡藩の悪政に対する全藩一揆の必要性を農民に説いたことから、「小本の祖父(おど)」と呼ばれ慕われていたと伝わっています。

弘化4年(1847)11月、弥五兵衛に率いられた百姓たちは続々と南下し、代官所のあった宮古で酒屋の若狭屋徳兵衛宅を打ちこわすと、翌12月には盛岡藩家老の南部弥五郎が治める遠野・鍋倉城下の早瀬川原に集合します。

このとき藩庁があった盛岡からは家老の南部土佐が派遣されてきましたが、弥五兵衛はこれを無視し、12月4日に遠野南部家の家老・新田小十郎に御用金の免除などを求める26か条からなる願書を提出します。

この願書は安家村(あっかむら:今の岩泉町)の百姓・俊作が起草したものですが、結果として御用金免除など12か条が即座に認められ、その他は追って回答されることになったため、一揆勢は5日に解散し、遠野南部家の計らいで食糧(米)をもらって帰村しています。

その後も藩家老・横沢兵庫は罷免され、藩主・南部利済は隠居して長男・南部利義に家督を譲るなど、一揆の後処理は続きましたが、当の弥五兵衛は藩が約束を破るであろうことをすでに見越しており、領内に潜伏して次の一揆に向けた農民の説得や資金集めなどを行っていました。

一揆のあった翌年の嘉永元年(1848)1月、二子通の上根子村(今の岩手県花巻市)で活動していた弥五兵衛は、同心・工藤乙之助(歌人・石川啄木の曽祖父)の手によって捕縛されて盛岡に送られ、公式には6月15日に牢死したとされています。ただし、弥五兵衛の墓には「嘉永元年五月十七日」と命日が記されており、実際にはそれ以前に非公式に斬首されたとも伝えられます。

いずれにしても、隠居したはずの南部利済は、嘉永2年(1849)には利義を廃して温厚で優柔不断な利剛を藩主に据え、俗に「君側の三奸」と呼ばれた参政の石原汀・田鎖左膳・川島杢左衛門を重用して藩政に容喙しはじめたため、さきの約束は反故にされ、ふたたび領民に対して高い御用金などを賦課するようになります。

こうして嘉永6年(1853)には「嘉永三閉伊一揆」が勃発し、弥五兵衛の遺志を継いだ畠山太助や三浦命助らの新たな指導者により、「小○」(「困る」)の旗を掲げた1万6千人が仙台藩に越訴し、税の減免などのほとんどの要求を藩に認めさせるとともに、安堵状による一揆首謀者の免責を勝ち取りました。また、石原汀・田鎖左膳・川島杢左衛門の3名は失脚し、南部利済も幕府から江戸屋敷での蟄居を命じられ、最終的に弘化・嘉永の2度にわたる「三閉伊一揆」は、犠牲を払いつつも百姓側の勝利として幕を閉じました。



参考文献・参考資料


リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。



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