義民のあしあと

佐賀野屋久右衛門(漁民義人塚)


加賀藩は金沢城下の食料需要に対応するため、指定した問屋に特権を与えて保護する制度を導入し、越中国放生津町(今の富山県射水市)では「六軒問屋」が成立していました。放生津の「六軒問屋」は、漁民に資金を前貸しする代わりに漁獲物を独占し、1割の口銭(手数料)で売り捌いていましたが、享保元年(1716)の不漁の際には地元漁民の不満が爆発し、バンドリ(蓑)を着た400人が金沢城下になだれ込む「バンドリ一揆」が発生します。惣代の佐賀野屋久右衛門と嵐屋四郎兵衛は、役人が問屋から賄賂をもらっていると批判したため、一揆の責任を負って放生津西浜で処刑されました。
その後「六軒問屋」は廃止されて市場ができ、口銭も引き下げられるなど制度が改善されたことから、その礎となった2人を供養するための「漁民義人塚」が建てられ、戦後に碑が再建されました。


目次
  1. 漁民義人塚の概要
  2. 漁民義人塚へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献


漁民義人塚へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。
名称 漁民義人塚
場所 富山県射水市港町地内
(この地図の緯度・経度:36.7866545, 137.0778751)
備考

「漁民義人塚」は、庄川河口の住宅密集地の一角にありますが、富山県道350号堀岡新明神能町線沿いに「漁民義人塚 Gyomingijinzuka」の道路標識が出ています。塚の位置は標識から30メートルほどで、現地にも説明板が建っています。専用の駐車場はありませんが、前面道路は幅員4メートル以上で一時駐車が可能です。

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義民伝承の内容と背景

加賀藩は金沢城下に集住する武士の食料需要に対応するため、領内の湊や浦で指定した魚問屋に特権を与えて保護する制度を導入し、越中国放生津町(今の富山県射水市)では「六軒問屋」が成立していました。

放生津の六軒問屋は、漁民に資金を前貸しする代わりに漁獲物を一手に集めて独占し、1割の口銭(手数料)で売り捌いていました。

享保元年(1716)の不漁の際、六軒問屋は役人には賄賂を贈る反面、貧しい魚民には漁具を買う資金を貸さず、漁民から買い上げた魚の代金も支払わないなど横暴が目立ったため、ついに10月になって漁民の不満が爆発し、バンドリ(蓑)を着た400人が金沢城下の公事場奉行所に押しかけ強訴する「バンドリ一揆」が発生します。

金沢の公事場奉行所では、東放生津惣代の佐賀野屋久右衛門・西放生津惣代の嵐四郎平(四歩市屋四郎兵衛)の2名を残して他の漁民は帰村させますが、この2名は役人の賄賂を痛烈に非難したことから、一揆の責任を一身に負わされ、享保3年(1718)2月6日、放生津西浜において処刑されました。

このとき藩主は役人の不正を聞き、奉行を罷免するとともに、赦免使を出して2人を救おうとしたものの、すでに斬首された後だったという話も伝わっています。

藩は六軒問屋を廃止し、改めて放生津漁場(市場)を設けて6人の魚吟味人を選ぶとともに、口銭を1割から8分に引き下げて、吟味人の役料と六軒問屋からの借金の10年賦返済に充当することとなりました。

さらに余った資金は不漁や水難事故に備えた一種の保険金として積み立てられたことから、後の漁業の発展にも大きく寄与しています。

地元では尊い礎となった2人を「世直し義人」として顕彰する「漁民義人塚」を建てるとともに、処刑後に後難を恐れて供養を申し出る寺院がない中、唯一その役目を買って出たという曹洞宗の長朔寺に位牌を置いて、現在でも引き続き供養がなされています。

この「漁民義人塚」は、水産庁が公募にもとづき選定した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」の一つにもなっています。


参考文献・参考資料

  • 近世義民年表
  • 『季刊人類学』第14巻第1号(京都大学人類学研究会編 社会思想社、1983年)
  • 『近世都市騒擾史』(原田伴彦著 思文閣出版、1982年)
  • 『新湊市史』(新湊市史編纂委員会編 新湊市、1964年)
  • 『編年百姓一揆史料集成』第2巻 (元禄三年~享保八年)(青木虹二編 三一書房、1979年)

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