義民のあしあと

吉岡村市兵衛(今泉河原処刑場跡)


幕府が発した流地禁止令を契機にして、享保7年(1722)、越後国頸城郡の天領の百姓が質流れの田畑を取り戻そうと実力行使に出たため、幕府は対応に困って法令を撤回するとともに、これらの地域を高田藩などの預地とします。特に藩主・松平定輝が治める高田藩の対応は苛烈をきわめ、質置人惣代の吉岡村市兵衛ら7人を磔、11人を獄門、12人を死罪としたほか、遠島や所払、科料に処せられた者多数に及びました。江戸時代を通じて犠牲者の特段の顕彰はされなかったようですが、近年では史料をもとに再評価が進んでいます。


目次
  1. 今泉河原処刑場跡の概要
  2. 今泉河原処刑場跡へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

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今泉河原処刑場跡へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

今泉河原処刑場跡 [参考リンク]

場所

新潟県上越市大和1丁目地内
(この地図の緯度・経度:37.0781, 138.2541)

備考

「今泉河原処刑場跡」には特段の案内板などがありませんが、県道の瀬渡橋が目印となり、橋の袂、左岸に延命地蔵が祀らています。



義民伝承の内容と背景

江戸幕府は寛永20年(1643)以降、田畑永代売買禁止令を発して農民が田畑を売買することを禁止してきましたが、重い年貢を支払うために田畑を質入れして資金を借り入れ、返済が滞って質流れとなる、実質的な売買に等しい状況が続いてきました。

そこで幕府では享保6年(1721)に老中・井上正岑(まさみね)の裁許を経て流地禁止令を公布しますが、その内容は、返済が滞っている農地は元金に年利1割半を加えた金額を皆済すれば何年過ぎていても元の地主に請け戻させること、享保2年の酉の年以後に質流れとなった農地は元金を残らず差し出せば請け戻しができること、今後は田畑の質入れで借金をする場合の金額は田畑の価額の2割を目安とすること、などを骨子とするものでした。

享保7年(1722)、流地禁止令の施行を伝え聞いた越後国頸城郡吉岡村(今の新潟県上越市)の百姓・市兵衛ら質置人(質入れをした人)たちは、村々に廻文を送って相談の上、代官所に訴状を提出して質流れの農地を取り戻そうとします。

当時の頸城郡内では、質入れされた農地を別の小作人が耕作して小作料を支払う、いわゆる別小作の形態だったため、これを質置人みずから耕作する直小作(じきこさく)に改められれば、その収入をもって元金とともに1割半の利息を年賦で返済しつつ、やがて質入れした農地を取り戻すことができるという訴えでした。

しかし、質置人である農民たちのなかには法令を曲解し、質取人の屋敷に乱入して米を強奪したり、他人が小作するのを妨害したりする者があらわれ騒動となったことから、代官・小野粂五郎は百姓の「心得違」だとして取締りをはじめたものの、騒動は拡大して享保8年(1723)には質取人・質置人双方が江戸の評定所に出向いて訴訟合戦をする事態へと発展します。

この享保7年以来の騒動(「頸城騒動」「越後質地騒動」という。)は、質置人側が不法行為を認める侘び証文を差し入れ、入牢していた農民たちも釈放されることでいったんは落着しますが、3月になって再燃します。

享保8年(1723)3月、吉岡村市兵衛、馬屋村源五左衛門のもとに集まった頸城郡内150か村、およそ2千人の農民たちは、質入れした農地に乱入して勝手に田打ちをはじめ、また後日には菅原村天神堂に7、8百人ほどが集まり気勢を上げるなどして騒動は拡大し、訴訟が止むこともありませんでした。

みずから対応に窮した幕府では、享保8年中には流地禁止令を撤回し、享保9年(1724)閏4月、越後国内の幕府直轄地35万石のうち33万石を高田藩・長岡藩・新発田藩・会津藩・館林藩の5大名の預地とし、地元に対応を委ねてしまいます。

騒動の中心地を預かることになった、藩主・松平定輝が治める高田藩では、家老の服部半蔵・久松十郎右衛門を御用掛として、6月に騒動に関与した農民らを一斉に捕縛し、その後は101人中55人までが拷問のために牢死するといった過酷なありさまであったといいます。

そして、享保10年(1725)3月11日以降、質置人惣代の吉岡村市兵衛ら7人が磔、11人が獄門、12人が死罪となり、今泉河原で刑が執行され、その他にも遠島や所払、科料に処せられた者が多数に及び、闕所として没収された不動産は入札に掛けられました。

なお、執行以前にすでに牢死した者も多く、たとえば実際に生きたまま磔刑に処せられたのは梨窪村百姓・藤助と青柳村百姓・甚五左衛門のみであり、罪状を示す捨札だけが立てられただけといったケースもあったといいます。

この「頸城騒動」の犠牲者については、江戸時代を通じて特段の顕彰はされなかったようですが、近年では史料をもとに再評価が進んでいます。



参考文献・参考資料

  • 百姓一揆の伝統 (続)
  • 地域と歩む史料保存活動
  • 『中頚城郡誌』第2巻(新潟県中頚城郡教育会編 新潟県中頚城郡教育会、1940年)
  • 『上越市史』通史編3近世一(上越市史編さん委員会 上越市、2003年)
  • 『編年百姓一揆史料集成』第2巻 (元禄三年~享保八年)(青木虹二編 三一書房、1979年)

書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社)はリンク先下部に記載があります。リンクがないものは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で収蔵している場合があります。

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