義民のあしあと

小村田之助(義民小村田之助墓所)



寛永20年(1643)、讃岐国山田郡小村(おもれ)(現在の香川県高松市)を干魃が襲い、庄屋の田之助が困窮する百姓を救うため、高松藩に年貢の分納を嘆願します。しかし、これが先例になることを恐れた役人によって、寛永21年(1644)、山田郡夷村(同高松市)において処刑されたと伝えられています。小村田之助の自宅跡にようやく墓が建てられたのは慶応年間に入ってからですが、現在も県道沿いにこの墓が残され、地元の義民として顕彰されています。


目次
  1. 義民小村田之助墓所の概要
  2. 義民小村田之助墓所へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献



義民小村田之助墓所へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

義民小村田之助墓所 [参考リンク]

場所

香川県高松市小村町地内
(この地図の緯度・経度:34.291050, 134.09784)

備考

「義民小村田之助墓所」は、県道147号線沿いにあり、現地に小村田之助の事績を記した案内板が建っています。駐車場はありません。80メートルほど東側に県道の小村町交差点、その角にファミリーマート高松小村町店があり、これが目印になります。


「白旗神社」(しらはたじんじゃ)(34.325429, 134.078168)は、木太小学校東側のアパートや民家が建ち並ぶ街区の一角にありますが、かなりわかりにくい場所です。県道7号線沿いのローソン高松木太町7区店のある交差点から北進して、山根マンションのある三叉路(分かれ股地蔵がある)から細い裏道に入り、30メートル直進して左折するイメージですが、進入路は狭く駐車場もありませんので、必然的に徒歩になります。現地には木造の社殿の中に石祠が祀られ、木太地区文化協会が建てた神社の由緒書があります。


「小村田之助処刑場跡」(34.3236, 134.0794)は、水谷内科クリニックの道路挟んですぐ南側の民家の角にある「さいかち道 小村田之助処刑場跡」の石柱を頼りに細い道を進んだ奥にあります。現地は「田之助 処刑場」と書かれた門柱のあるブロック塀で区画され、「碑」とのみ書かれた石碑が建てられています。



義民伝承の内容と背景

江戸時代初期の寛永19年(1642)、讃岐国山田郡小村(おもれ)(現在の香川県高松市)では病弱な父に代わって19歳の田之助が庄屋職を継ぎますが、翌年の寛永20年(1643)にかけて、この地を2年続きで干魃が襲い、凶作のため年貢を支払えずに困窮する百姓が相次ぎます。

このため、庄屋の田之助は困窮する百姓を救うため、皆済できなかった場合は庄屋自身が私財で代納する条件を付けて高松藩に年貢の分納を嘆願し、いったんは認められます。

しかし、高松藩主・松平頼重の小姓を務めていた大村兵蔵という者が、庄屋の分際で不遜であり、法を蔑ろにする行いだと進言したため、寛永21年(1644)4月24日、山田郡夷村(同高松市)において斬首の刑に処せられました。

小村田之助は処刑されましたが、その後は藩から毎年11月に8分、翌年6月に2分の割合での年貢の分納が認められ、6月分を俗に「首切り勘定」と称するようになったといいます。

小村田之助の自宅跡にようやく墓が建てられたのは幕末の慶応2年(1866)に入ってからですが、現在も県道沿いにこの墓が残され、地元の義民として毎年の命日に法要が営まれるなど顕彰されています。

また、藩主が処刑の中止を決めて刑場に急使を走らせたものの、間に合わないと見た使者が遠くから中止の合図に白旗を振った場所が現在の「白旗神社」で、この白旗は逆に処刑の合図と勘違いされ、田之助はすぐさま処刑されてしまったとも伝えられています。



参考文献・参考資料

  • 近世義民年表
  • 『新修高松市史』Ⅰ(高松市史編集室 高松市役所、1964年)
  • 『義民小村田之助 讃岐百姓一揆史』(福家惣衛著 香川県文化同好会、1954年)
  • 『編年百姓一揆史料集成』第1巻(青木虹二編 三一書房、1979年)

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。



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島田 裕巳 (監修)
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