義民のあしあと

金子重右衛門(金重大明神)



甲斐国内の田安領では、代官所が1升1斗入りの太枡を用いて年貢米1升を計量する不正な増徴策を採用したため、寛政4年(1794)、甲斐国八代郡金田村(今の山梨県笛吹市)の長百姓・重右衛門らが54か村を代表して江戸の寺社奉行に越訴します。これを「太枡騒動」「太枡事件」と称し、金田村重右衛門及び綿塚村重右衛門が獄門、熊野村勘兵衛が死罪となりますが、金田村重右衛門は文久3年(1863)には「金重大明神」として祀られ、今にその石祠が残っています。


目次
  1. 金重大明神の概要
  2. 金重大明神へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献



金重大明神へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

金重大明神 [参考リンク]

場所

山梨県笛吹市一宮町金田地内
(この地図の緯度・経度:35.650528, 138.684694)

備考

「金重大明神」は、国道20号甲州バイパスの北にある金子重右衛門の菩提寺「西運寺」(笛吹市一宮町金田1201番地)の角から東に150メートルほど離れた畑の中に位置しています。手前の道路沿いに建つ「金子重右衛門遺徳顕彰碑」の真後ろのスモモ畑の中で、石の台座の上に祀られている小さな石祠がそれです。
また、菩提寺の西運寺境内の正面向かって左手には金子重右衛門の墓もあります。



義民伝承の内容と背景

徳川御三卿の一つの田安家領にあたる甲斐国山梨郡・八代郡では、新任代官の山口彦三郎のもと、1升1斗入りの「太枡」を用いて年貢米1升を不正に計量したり、検見の際に上出来の田ばかりを坪刈して課税標準を引き上げたりと、これまでとは異なるさまざまな方法(「新規御仕法」)で年貢増徴を図ろうとします。

これに対して、八代郡金田村(今の山梨県笛吹市)の金子重右衛門、山梨郡綿塚村(今の山梨県甲州市)の三沢重右衛門、山梨郡熊野村(同じく甲州市)の鮎沢勘兵衛ら長百姓が中心となって寄合を重ね、寛政4年(1794)、まずは一町田中村(今の山梨県山梨市)にあった田中陣屋に訴えますが、取り上げられることはありませんでした。

そこで田安家領の山梨郡・八代郡54か村(不参加の村を除く)では、この年の暮れの12月、正月の松飾りや餅の準備を自粛の上、惣代として21名を選んで江戸に送り、寺社奉行の立花種周に対し、田安家役人の不正で百姓が困窮しているので糺明するよう求める10か条の訴状を提出します。

ところが、江戸で越訴をした惣代たちは捕縛されて田安家に引き渡されたり、吟味のため召し出されたりしたため、残りの惣代たちが翌年2月に江戸城桔梗門外で老中・松平定信への駕籠訴に踏み切りますが、結局は直訴に関係した90人ほどが入牢することとなり、厳しい吟味が行われます。

寛政5年(1795)7月18日、田安家の吟味に基づき勘定奉行・根岸鎮衛から裁許状が出され、「徒党強訴之頭取」として綿塚村重右衛門及び金田村重右衛門が獄門、熊野村勘兵衛が死罪、家財は没収(闕所)と決し、首は日川河原に晒されたといいます。

一方の田安家においては、地元の酒造業者の松葉屋の出身で、算術に長け永年にわたって手代として田安家に奉公してきた地方役・山下次助(治助)のみに責任を負わせ、江戸十里四方及び甲斐国内の田安家領からの御構(追放)として幕引きを図りました。

この一件は「太枡騒動」「太枡事件」と呼ばれますが、百姓一揆で犠牲となった金子重右衛門は、田安家の代官となった磯部最信(よしのぶ)の勧告により、江戸末期の文久3年(1863)に地元有志の手により「金重大明神」として祀られ、現在もその石祠が残っています。



参考文献・参考資料


リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。



図説 日本の百姓一揆
斎藤 純 (監修), 歴史教育者協議会 (編集)
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