義民のあしあと

北沢清兵衛(天明山中騒動記念碑)



天明3年(1783)の浅間山噴火による被害に加え、松代藩から拝借金の返済などを求められて行き詰まった信濃国水内(みのち)郡の人々は、藩の後ろ盾を得て富裕な酒屋から借金をすることにより藩への返済に充てようとします。天明4年(1784)11月12日、城の平(今の長野県長野市)に集まった百姓1万5千人は、酒屋に金銭を無心しつつ松代城下を目指しますが、途中を阻んだ役人と交渉して拝借金の据置きなどの要求を認めさせたため帰村します。後にこの「天明山中騒動」の責任追求が始まりますが、百姓側では地京原村の北澤清兵衛が永牢となったものの極刑は免れています。そこで平成14年(2002)、義民顕彰のために清兵衛の生誕地に「天明山中騒動記念碑」が建てられました。


目次
  1. 天明山中騒動記念碑の概要
  2. 天明山中騒動記念碑へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献



天明山中騒動記念碑へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

天明山中騒動記念碑 [参考リンク]

場所

長野県長野市中条御山里地内
(この地図の緯度・経度:36.6270, 138.0187)

備考

「天明山中騒動記念碑」は、旧中条村の山間部に建っています。周囲3キロ圏には中条音楽堂、梅木鉱泉、やきもち屋、虫倉神社、栃倉の棚田、廣福寺といった観光スポットがあるものの、記念碑はこれらを結ぶメインルートの県道401号小川長野線からはかなり外れていて、舗装されているものの幅員が狭いつづら折りの坂道を進む必要があります。
県道401号線からの分岐にあたる寺島酒店(長野市中条御山里1032番地)付近の交差点に「天明山中騒動記念碑入口」の標識があり、これ以降も同様に標識にしたがって2キロほど移動すると、道路沿いに「天明山中騒動 北澤清兵衛生誕之地」と刻まれた石碑と解説板が見えます。


「城の平」(36.6157,138.0479)は、県道31号長野大町線の中条トンネルの側道を通ってトンネルの上に出る道路を進んだ先にあります。長野市の市街地から国道18号を通って県道に入ると、トンネル側道入口に「名刹七不思議の寺 信濃一番曹洞宗眠月山臥雲院 約5km」の看板が建っていますので、まずはこれを目印にします。
側道からトンネルの上に登る枝道に入ってってしばらくすると、長野市民バス「城(じょう)入口」バス停がある鋭角の交差点に「天明山中騒動集合の地」の看板が出ていますので、ここを曲がります。
バス停から150メートルほど進むと、周囲を畑に囲まれた、ちょっとした平場がありますが、ここが「城の平」にあたり、旧中条村で作成した解説板が建っています。



義民伝承の内容と背景

天明3年(1783)7月8日、浅間山は大噴火(「浅間焼け」)を起こし、火砕流や降灰で松代藩領であった信濃国水内(みのち)郡の各村、いわゆる「山中」地域でも多くの被害を蒙りました。

松代藩でもさすがにこの年は年貢減免を決めるなどしていますが、翌年には領内の豊作を理由として、これまで延納されてきた年貢の納入や拝借金の返済などを村役人に申し渡します。

もともと山間部で生産性に乏しく、噴火の影響から立ち直れていなかった山中地域では、葛の根を掘り出して飢えをしのぐ有りさまだったことから、まず念仏寺村と伊折村(今の長野県長野市)、久木村(今の長野県上水内郡小川村)の村役人が集まり、この命令への対応を協議します。

松代藩では噴火後の米価高騰の時期にも領内での酒造を奨励しており、富裕な酒屋のもとに百姓が多人数で押しかけ、藩の権威を盾に酒屋から借金をして、それを藩への返済に充てれば解決が図れるとの結論にまとまり、周辺の村役人も誘い込んで大々的な一揆と発展します。

天明4年(1784)11月12日、八幡宮(長野県千曲市の武水別神社)の大頭祭の日にあわせ、念仏寺村の城の平に続々と集まった山中地域の百姓は、途中で酒屋に無心して借金の証文を受け取りつつ松代城下を目指して進み、総勢で1万5千人あまりになったといいます。

しかし、松代城下に入る手前の千曲川べりの二ッ柳に出張してきた松代藩の役人に行手を遮られ、役人と交渉して拝借金の据置きや酒造の減産などの要求がおおむね認められたため、一揆勢は解散して村に戻ることとなりました。

これを「天明山中騒動」といい、翌年の天明5年(1785)には一揆の責任追求がはじまり、多数の百姓が捕縛されますが、寺院による減刑嘆願もあって、地京原村(今の長野市)の北澤清兵衛が永牢となったものの、百姓側からの極刑は免れています。

北澤清兵衛はその後病気のため出獄し、子の清助が面倒を見ていましたが、寛政4年(1792)に松代において病死しており、平成14年(2002)には郷土の義民顕彰を目的として、清兵衛の生誕地に「天明山中騒動記念碑」が建てられました。

また、北澤清助(北澤弥長治)は「我等親清兵衛義誠ニ無実之罪ニ墜入候事末之世迄茂心外ニ存し候」との一念から、父の無実を証明するために『天明飢饉騒動録』を書き記して郡奉行に提出したほか、石門心学の「恭安舎」の三世舎主として地域の教育に努めるなどしています。



参考文献・参考資料


リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。



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