柿の木地蔵(中尾重兵衛と篠山藩越訴)

柿の木地蔵 義民の史跡
柿年貢を阻止して磔となった庄屋を供養する石地蔵
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元和7年(1621)、篠山藩は不作につき柿などの生木物(なりきもの)の上納を領内に命じました。飢えに苦しむ百姓を見かねた丹波国多紀郡二ノ坪村(今の兵庫県丹波篠山市)の中尾重兵衛らが京都所司代に越訴し、新税は取止めとなったものの、重兵衛を含む頭取9人は八上高城において磔に処せられました。今でも二ノ坪の集落には重兵衛を供養する「柿の木地蔵」が丁重に祀られています。

義民伝承の内容と背景

江戸時代初期の元和7年(1621)、丹波国篠山藩では米が不作となったため、柿などの生木物(なりきもの)を代わりに上納するよう領内に命じました。

不作の中で唯一実った柿を取り上げられて飢餓に苦しむ村人たちを見かねた多紀郡二ノ坪村の中尾重兵衛は、他の庄屋らの賛同を集め、この年の8月、郡中で苗字を持つ百姓23人の連名をもって、京都所司代に対して篠山藩の悪政を越訴しました。

10月に江戸へ召し出された重兵衛らは幕府の取調べを受け、竈役、畔樹木年貢、嫁取・初産等の雑税は願いのとおり取止めとなったものの、重兵衛を含む頭取9人は八上高城において磔に処せられました。

『多紀郷土史考』が引用する『青山家旧記』には「此御代御仕置荒く、公事人、小盗人等の軽罪小過も討首」とあり、時の藩主・松平忠国が領民に対して峻厳な姿勢で臨んでいたことが伺われます。

後にこの重兵衛らを供養するため、二ノ坪の集落にある柿の木の根元には石地蔵と五輪塔が建てられたといい、老朽化したかつての地蔵に代わり、平成3年(1991)に新たな「柿の木地蔵」が建立され、今でも地域住民によって丁重に祀られています。

また、火災で焼失後に復元された篠山城大書院には、丹波篠山の貴重な歴史遺産のひとつとして、この地蔵の由来を示した展示パネルが展示されています。

参考文献

『多紀郷土史考』上巻(奥田楽々斎 多紀郷土史考刊行会、1958年)
『百姓一揆―幕末維新の民衆史』(赤松啓介 明石書店、1995年)

柿の木地蔵の地図とアクセス

名称

柿の木地蔵

場所

兵庫県丹波篠山市二之坪地内

備考

国道173号から集落内の二ノ坪公民館に至る途中の路傍にある。

関連する他の史跡の写真

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❷八上城

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