上月平左衛門(首切り地蔵)
宝永5年(1708)、播磨国神西郡新野村(今の兵庫県神崎郡神河町新野)の大庄屋・上月平左衛門は、重税に苦しむ農民のため幕府に越訴しようとしますが、途中の根宇野村(今の神河町根宇野)で役人に追いつかれ斬殺されてしまいます。村人たちは平左衛門を憐れみ地蔵を建てて供養するものの、ひとりでに首が落ちてしまい、再び地蔵をつくり直してもまた首が落ちて袈裟斬りの姿になってしまったといいます。
義民伝承の内容と背景
播磨国神西郡新野村(今の兵庫県神崎郡神河町新野)の大庄屋の上月(こうづき)平左衛門景重は、亀ケ壺山(今の姫路市夢前町山之内地内)を神西郡・飾西郡の入会地として共有化するなど、農民のために尽くした事績が伝わっています。
上月氏は、南北朝時代に活躍した武将・赤松円心以来の家臣で、後にこの地で帰農土着しており、平左衛門はその子孫といわれます。
上月平左衛門は、凶作飢饉の中で重税に苦しむ農民のため、領主で旗本の池田氏に何度も年貢減免を訴えるものの取り上げてもらえず、宝永5年(1708)に幕府に越訴をしようと決意の旅に出ます。
今に伝わる野崎次太夫・関口重郎兵衛の両奉行に宛てた上月平左衛門の口上書には、「余り御情なき(中略)とかく御両人御恨に奉存候事」などとあり、後世の偽作という指摘(たとえば赤松啓介『百姓一揆』)はあるものの、政治に対する辛辣な批判が目立ちます。
そしてこの旅の途中、播磨国神東郡根宇野村(今の兵庫県神崎郡神河町根宇野)に来たところで上月平左衛門は役人に追いつかれ、その場で背後から不意打ちに斬殺されてしまいます。
村人たちは平左衛門を憐れんで道端に石地蔵を建てたものの、その後ひとりでに首が落ちてしまい、再び石地蔵を作り直してもまた首が落ち、ちょうど肩から乳脇にかけて石が割れ袈裟斬りの姿になってしまったため、僧侶を呼んで懇ろに供養したといいます。
この出来事があった年代などには異説もありますが、現在も根宇野地区の路傍には伝説の「首切り地蔵」、またの名を「袈裟斬り地蔵」が丁重に祀られているほか、生地にあたる新野地区にも明治時代にいくつかの「上月平左衛門頌徳碑」が建てられました。
首切り地蔵へのアクセス
名称
- 首切り地蔵 [参考リンク]
場所
- 兵庫県神崎郡神河町根宇野(みよの)地内
(この地図の緯度・経度:35.0847, 134.8269) 備考
「首切り地蔵(袈裟斬り地蔵)」は、兵庫県道8号加美宍粟線沿いの、大字でいう根宇野と岩屋の境界付近にあります。現地には四阿(あずまや)のような立派な覆屋があり、そのなかに首なし地蔵2体が安置されており、地元で大切に供養されていることがわかります。
「上月平左衛門頌徳碑」(35.0491,134.7509)は、JR播但線「新野駅」からも見える西方200メートルほどの古墳の下にあり、神河町教育委員会が解説板を建てています。
参考文献
- 近世義民年表
- 兵庫県史〈第4巻〉 (1979年)
- 百姓一揆事典
- 百姓一揆――幕末維新の民衆史
- 『かんざき夜話 ―史話と民話―』(神崎町文化協会郷土史研究部会 神崎町文化協会、1987年)
[参考文献が見つからない場合には]