本多又左衛門(本多又左衛門供養碑)
享保19年(1734)、凶作下で年貢増徴を行った福知山藩では、城下に多数の百姓が詰め掛ける「享保の強訴」を招き、このときは百姓の要求を認め穏便な解決が図られました。ところが10年後になってから唐突に取調べがはじまり、頭取のうち既に病死していた石場村先庄屋の又左衛門は墓から遺体を掘り出し首を刎ねて取捨て、存命の堀村庄屋佐次兵衛には死罪が申し渡されました。その後これら2人の義民を顕彰するため、それぞれの地元に石碑や供養碑が建てられています。
義民伝承の内容と背景
福知山藩主の朽木玄綱(とうつな)は、清水安左衛門らを御勝手頭取に任命し、過去の借金の返済を据え置くとともに、新規の支出は収入の範囲に抑制する「御手賄」で財政再建を図ろうとします。
このような財政改革の最中、不作にもかかわらず年貢を増徴しようとしたことから、享保19年(1734)に多数の百姓が城下に詰め寄る「享保の強訴」を招きます。
このとき藩では百姓側の要求を認め、御用拾米を給付するなどしており、いずれにしても穏便に事態の解決が図られ、処罰を受けた者も特にありませんでした。
ところがそれから10年後の寛保4年(1744)になって、唐突に享保の強訴の取調べがはじまり、領内の庄屋らが次々と召し出されました。
その背景としては、土師村の次左衛門が藩士の一人とともに京都から帰る途中、江戸ヶ坂のあたりで10年前の強訴の話題となり、石場村の先庄屋・本多又左衛門が頭取であったことをうっかり漏らしてしまったという言い伝えがあります。
『福知山市史』が引用する古文書「堀村代々庄屋記録」にはこの間の経緯が詳しく記されていますが、特に南郷の頭取だった堀村庄屋・横山佐次兵衛は、「水せめ被仰付候筈ニ而候得共 先年之頭取石場村又左衛門より申来リあらき伝七ゆいつきニて 私共南郷へ回状相廻し候由申候」と、役人から水責めの拷問をすると脅され、石場村先庄屋・又左衛門から石場村荒木の先組頭・伝七を経て自分に連絡があったと白状しています。
その結果、頭取の石場村又左衛門は、存命であれば死罪の上獄門に処せられるところ、すでに病死していため「がいこつほり出し死ざひに被仰付候」、つまりは埋葬されていた骸骨を墓から掘り出してその首を刎ね、死体は取捨てにされました。
また、存命の堀村次左衛門は、福知山領内の南郷の頭取として百姓に鎌を持って集まるよう唆したとして死罪になり、他にも家族や他の村の庄屋などが入牢や追放などを藩から申し渡されています。
この本多又左衛門、横山佐次兵衛の両名はその後義民として顕彰され、今の京都府福知山市内にあたるそれぞれの地元に顕彰碑や供養碑が建てられています。
本多又左衛門供養碑へのアクセス
名称
- 本多又左衛門供養碑 [参考リンク]
場所
- 福知山市字石場地内
(この地図の緯度・経度:35.2884, 135.0591) 備考
「本多又左衛門供養塔」は、福知山市字石場の又左衛門屋敷跡付近の路傍にあります。国道429号の北200メートルほどの場所ですが、国道からの入口には特に目印はありません。現地まで行けば本多又左衛門に対する御仕置申渡書を刻んだ石碑が建っていますのでそれとわかります。
「義民横山佐次兵衛之碑」(35.2889,135.1328)は、円浄寺境内の本堂左手の塀沿いにあります。石碑の右後ろに佐次兵衛の法名「大空得法信士」と妻の法名をあわせて刻んだ小さな墓碑もあります。
参考文献
- 福知山市史〈史料編 1〉 (1978年)
- 福知山市史〈第3巻〉 (1984年)
- 百姓一揆事典
- 丹波人物志
- 『堀村の歴史』(塩見昭吾著 株式会社オカムラ出版事業部、2007年)
[参考文献が見つからない場合には]