夏梅太郎右衛門顕彰碑(夏梅太郎右衛門と熊野部村訴願)

夏梅太郎右衛門顕彰碑 義民の史跡
代官に強訴して火刑に処せられた庄屋を讃える碑

播磨国多可郡熊野部村(今の兵庫県多可郡多可町)の庄屋・夏梅太郎右衛門は、生野代官に対して何度も減租を嘆願し、ついに明和元年(1764)6月25日、村内サイノ木において火刑に処せられたと伝えられます。明治時代になって夏梅太郎右衛門は義民として再評価され、その終焉の地に「夏梅太郎右衛門顕彰碑」が建てられました。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代中期、生野代官が支配する幕府領では多くの百姓が重税に苦しんでいました。

播磨国多可郡熊野部村では、庄屋の細野武平がみずから借金をした上で年貢の肩代わりをしたものの、宝暦10年(1760)にはついに負担に耐えきれなくなって美作国(今の岡山県)に夜逃げしてしまいます。

次いで庄屋となった夏梅太郎右衛門は、生野代官に対して何度も減税を嘆願しますが、その願いが聞き入れられることはありませんでした。

夏梅太郎右衛門はこの過程で何らかの罪に問われたらしく、かえって捕らえられ、明和元年(1764)6月25日、熊野部村字サイノ木において、割木と松の青葉をもって燻り殺されたといいます。

しかし、この一件があって以降、生野代官の苛政はやみ、村人たちは安心して生活できるようになったことから、後に夏梅太郎右衛門を祀る小祠がつくられ、明治44年(1911)にも杉原川沿いに立派な「夏梅太郎右衛門顕彰碑」が建てられました。

漢文体の銘文には意味が取りにくい部分もありますが、太郎右衛門は死に臨んで村人たちを見渡し、「私は微力だが一揆によらず故郷の人々の憂いを除こうと思った。当初の目的は果たせなかったが、これで残酷な役人の心を怖じけさせることくらいはできた。願わくは皆が私の遺志を継いでくれるように」との趣旨を言い残したと記されています。

夏梅太郎右衛門については当時の史料がなく謎が多いものの、平成15年(2003)に明治時代の「夏梅太郎右衛門顕彰碑」が再建され、一帯の公園化が図られています。

参考文献

『多可西脇の農民一揆』(脇坂俊夫 脇坂俊夫、1973年)
『兵庫県の地名』2(平凡社地方資料センター編 平凡社、1999年)
『兵庫県多可郡加美村誕生兼松井庄部落誌』(藤賀与一・松本勝次郎 有田印刷所、1959年)

夏梅太郎右衛門顕彰碑へのアクセス

名称

夏梅太郎右衛門顕彰碑

場所

兵庫県多可郡多可町加美区熊野部地内

備考

播但連絡道路「神崎南インターチェンジ」から東へ車で20分、国道427号沿い、稲荷神社鳥居付近に看板あり。

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❶夏梅神社

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