義民のあしあと

涌井藤四郎(涌井藤四郎・須藤佐次兵衛墓)


明和5年(1768)、長岡藩が新潟町(現在の新潟県新潟市)に賦課した御用金の延納を嘆願しようとした町人の涌井藤四郎が投獄されたことをきっかけに、町民による大規模な打ちこわし(「新潟明和騒動」)が起こり、新潟奉行所はいったん涌井藤四郎を釈放します。
その後約2か月にわたり、新潟町では町中惣代の涌井藤四郎の下での町民自治が行われました。
しかし、長岡藩では涌井藤四郎ら関係者を捕らえ、明和7年(1770)8月に涌井藤四郎と須藤佐次兵衛を処刑します。
程なく彼らを供養する「題目塔」が建てられたほか、近代に入ると自由民権運動の風潮もあって、長照寺での「涌井藤四郎・須藤佐次兵衛墓」建立をはじめ、盛んに「明和義民」として顕彰されるようになりました。


義民伝承の内容と背景

明和4年(1767)、財政に行き詰まった長岡藩では、新潟町(現在の新潟県新潟市)に対して1,500両もの御用金を賦課します。
新潟町ではすぐには御用金を完納できないため、まずは半分だけ納付して、残りは利息とともに翌年に納入することで藩と合意します。

しかし、折からの凶作による米価高騰もあって、翌年の明和5年(1768)には残りの御用金を納付するのが難しくなったため、町人の涌井藤四郎らが話し合いをして、新潟町奉行に御用金延納の嘆願をすることになりました。

涌井藤四郎ら3、40人余りによるこの9月13日の西祐寺での集会を、米商人の八木屋市兵衛が「徒党」として密告したため、9月20日には集会に参加した者全員が町会所に召喚され、ついに涌井藤四郎は入牢を申し付けられてしまいます。

これをきっかけに町内は不穏となり、9月26日の夜、本明寺の早鐘が鳴らされたのを合図にして、日和山に鳶口などを手にした多数の町民が集まりました。
謎の黒装束の男数名に率いられた民衆は、密告者の八木屋市兵衛の居宅を皮切りに、翌27日まで米商人や町役人宅などを打ちこわして回りました(「新潟明和騒動」)。
新潟町奉行の石垣忠兵衛らは市街地に陣を張り、鉄砲で応戦したものの敗退したため、やむなく涌井藤四郎を釈放し、その涌井の説得によって町内は平穏を取り戻します。

9月29日になると、涌井藤四郎は町民の代表を勝念寺に集めて連判状を作成し、これ以降は涌井を新潟町惣代とする自治が行われるようになりました。
このなかでは米・酒・豆腐といった生活必需品の価格引き下げ、質屋の貸し付けにおける利息制限、買いだめや転売防止のための涌井の判のある米手形の発行などの取り組みが見られました。

一方で町奉行からの注進を受けた長岡藩でも、新潟町に藩兵を派遣して鎮圧しようとしますが、涌井の指示なしには船からの荷降ろし作業さえ人足から拒否されるありさまでどうすることもできず、光林寺などにしばらく滞在した後で長岡に帰ってしまいます。

10月には大番頭奉行の今泉岡右衛門と元締吟味頭の飯田久兵衛が新潟に派遣され、町民の代表者を本覚寺に呼び出し、打ちこわされた建物の修繕などを命じた上、仮の町役人を任命して秩序の回復に当たろうとするもののうまく機能せず、町民に飢手当米を施して両名が長岡に帰ると、ほとんど藩公認での自治となります。

およそ2か月にわたる新潟町の自治は、11月に涌井らが長岡に出頭を命じられて投獄されるに及んで終止符が打たれ、以後は新しく任命された町奉行や町役人の下で藩主導による統治が復活します。

明和7年(1770)8月25日、涌井藤四郎と須藤(岩船屋)佐次兵衛の両名は、新潟町内を引き回しの上、鍛冶小路の牢屋敷において打首となりました。
涌井藤四郎の首は題目庵(今の題目寺)の辺りで獄門に架けられたものの、何者かが首を奪っていったといいます。

涌井藤四郎への思慕は亡くなった後も絶えず、今は新潟大学医学部の敷地となっている南山に、藩を憚って「信濃川溺死者霊魂」と書かれた供養塔が寛政年間(1789~1801)に建てられています。
また、『江戸繁昌記』を書いたことで知られる儒学者の寺門静軒は、安政6年(1859)の『新潟富史』の中で、「世下総に荘五郎有るを知りて越にも亦た荘五郎有るを知らず。其の湮滅を惜んで贅記す」(原典は漢文)として、一揆の頭取として処刑された下総の義民・佐倉惣五郎になぞらえて、涌井藤四郎の事績を詳しく紹介しています。

近代に入ると、自由民権運動の風潮もあって「明和義人」として盛んに顕彰されるようになり、古町通の愛宕神社境内に明和義人を祀る口之神社が創建されたほか、新潟明和騒動を描いた芝居の収益金をもとに長照寺境内に「涌井藤四郎・須藤佐次兵衛墓」が建てられました。
また、新潟市の中心部に位置する白山公園内には、昭和3年(1928)に巨大な「明和義人顕彰之碑」が建てられています。



涌井藤四郎・須藤佐次兵衛墓へのアクセス

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名称

涌井藤四郎・須藤佐次兵衛墓 [参考リンク]

場所

新潟県新潟市中央区西堀通5番町854番地 長照寺境内
(この地図の緯度・経度:37.9216, 139.0423)

備考

「涌井藤四郎・須藤佐次兵衛墓」は、新潟市の市街地にある日蓮宗長照寺の境内墓地のもっとも奥、本堂の北側にあたります。現地に説明文などは特にありませんが、俗名が篆書体で墓石に明瞭に刻まれています。


「題目塔」(37.9181,139.0324)は、新潟市中央区学校町通2番町5310所在の題目寺境内にあり、本堂前に3つ並んでいる石塔のうちの中央のものです。ここは涌井藤四郎の首が獄門に架けられた場所にあたりますが、「題目塔」自体は新潟大学医学部の敷地となっている南山に建てられていたものを移設しています。


「明和義人顕彰之碑」(37.9149,139.0402)は、白山公園の裏手の東堀口近く、新潟県政記念館の脇にあたります。現地には解説板があります。


「口之神社」(37.9161,139.0410)は、白山公園に隣接する白山神社の赤鳥居から古町通をそのまま北に150メートルほど進んだ愛宕神社の境内にあります。境内社ではありますが、愛宕神社と比べてもそれなりに大きな社殿です。




参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。

中部地方 涌井藤四郎 新潟明和騒動