三保の藤五郎(藤五郎神社)
江戸末期の安政の大地震は農地にも甚大な被害を及ぼしましたが、駿河国有度郡三保村(今の静岡県静岡市清水区)一帯では海岸が隆起して新たな土地を生じたたため、困窮する小前百姓らは三保村の藤五郎(遠藤藤五郎)を代表として、領主である御穂神社神官の太田健太郎にこの土地の開墾を申し出ます。ところが領主はこれを拒絶したため、藤五郎は幕府代官所に訴え出て、土地の一部が配分されることになりました。その後藤五郎は捕らえられて投獄され、ようやく釈放される直前に何者かによって毒殺されたといいます。明治4年(1872)、藤五郎の遺徳を偲んで街道筋に稲荷の小祠が建てられ、これが遷座して立派な社殿をもつ「藤五郎神社」となり現在に至ります。
義民伝承の内容と背景
江戸末期の安政元年(1854)に発生した「安政の大地震」の際には、駿河国有度郡三保村(今の静岡県静岡市清水区)の辺りでも深さ3、4尺ほどの津波が襲い、農地が陥没して潮水に浸かるなどの甚大な被害を蒙りました。
一方で乾尻・貝嶋などの地区の海岸が隆起して新たな土地を生じたたため、困窮する小前百姓は三保村の藤五郎(遠藤藤五郎)らを代表に選び、海岸の領主である御穂神社神主の太田健太郎にこの土地の開墾を申し出ます。
ところが領主の太田はこれを拒絶しておきながら、かえって私利私欲で自分の親戚らを使って土地の開墾を始めたため、安政3年(1856)、三保村の藤五郎と兵五郎が幕府代官に訴え出て、不公平ながら一部の土地が小前百姓らに配分されることになりました。
その後、藤五郎は書状ににせ判を使ったとの嫌疑で投獄され、海長寺の和尚らの嘆願活動などもあり、慶応3年(1867)に釈放されることになりましたが、その直前に何者かによって毒殺されてしまったといいます。
そして、領主であった太田健太郎も、幕末維新の流れの中で新政府軍に協力する「駿州赤心隊」を組織して活動したため、幕府残党の恨みを買って明治元年(1868)には暗殺されてしまいます。
明治4年(1872)、藤五郎の遺徳を偲んで街道筋に稲荷の小祠が建てられ、戦時中の昭和17年(1943)に鉄道建設のため現在地に遷座して、立派な社殿をもつ「藤五郎神社」となっています。
藤五郎神社へのアクセス
名称
- 藤五郎神社
場所
- 静岡県静岡市清水区三保地内
備考
「藤五郎神社」は、静岡県道199号三保駒越線沿いのスルガ銀行三保出張所の裏手のほうにあります。神社は県道には直接面しておらず、道路1本隔てた場所です。境内正面右手には藤五郎の頌徳碑も建てられています。
静岡市清水区三保1073の「御穂神社」(35.0000,138.5209)は、「藤五郎神社」の400メートルほど南に位置しており、県道沿いにも御穂神社又は三保の松原への案内標識がありますので、これに従いアクセスします。境内脇に無料の駐車場があります。
参考文献
- 静岡県史話と伝説
- 角川日本地名大辞典 22 静岡県
- 『歴史評論』(4巻1号)(歴史科学協議会編 歴史科学協議会、1950年)
[参考文献が見つからない場合には]