中川覚右衛門(中川覚右衛門墓碑)
安永8年(1779)、三河国碧海郡安城村(今の愛知県安城市)では日照りや洪水のために不作となり、庄屋の中川覚右衛門は領主である久永内記に年貢減免を嘆願するものの認められませんでした。そこで覚右衛門は郷倉に入り込むと米俵の上で切腹して果て、さすがの領主も年貢を減免し、郷倉の米俵を救米として村民に施すことになりました。明治に入ると中川覚右衛門は「安永の義民」と称えられるようになり、明法寺境内に「中川覚右衛門墓碑」が、また大乗寺門前にも「義民中川覚右衛門頌徳碑」が建てられています。
義民伝承の内容と背景
安永8年(1779)、三河国碧海郡安城村(今の愛知県安城市)では、日照りや矢作川の堤防決壊による洪水のために不作となり、庄屋の中川覚右衛門は領主である久永内記に対して年貢減免を嘆願するものの、許しを得ることができませんでした。
同年の10月17日、中川覚右衛門が郷倉の番舎に入ったまま出てこないので、村人が怪しんで中を覗いてみると、嘆願の血書をしたためて米俵の上で切腹して果てていました。
または郷倉にあった救米を独断で村民に施してしまったため、すべての責任を負って切腹したともいわれます。
領主もこの意気に感じて年貢を減免し、郷倉の米俵60俵を救米として村民に施すとともに、中川家にも毎年のように供養のための御仏供米5俵を賜ったといいます。
明治に入ると中川覚右衛門は「安永の義民」と称えられ、明法寺境内に「中川覚右衛門墓碑」として舟形光背をもつ阿弥陀如来の石仏が建てられたほか、戦後は大乗寺の門前にも「義民中川覚右衛門頌徳碑」が建てられました。
中川覚右衛門墓碑へのアクセス
名称
- 中川覚右衛門墓碑 [参考リンク]
場所
- 愛知県安城市安城町拝木33
(この地図の緯度・経度:34.9475, 137.0983) 備考
「中川覚右衛門墓碑」は、安祥城址公園の県道挟んで北側に位置する明法時の境内、本堂の左脇にあります。手前には安城市教育委員会が建てた市指定史跡の解説板もあります。
「中川覚右衛門自刃之地」(34.9457,137.0992)は、安祥城本丸跡に建つ大乗寺の北門に上る参道の途中にあります。
「義民中川覚右衛門頌徳碑」(34.9454,137.0993)は、同じく大乗寺の山門に上る参道の途中、山門正面から見て右下に建てられています。