市原清兵衛(義民清兵衛之碑)
篠山藩では酒造などの目的での他領への出稼ぎが禁止されていましたが、村人たちの困窮を見かねた丹波国多紀郡市原村(今の兵庫県丹波篠山市)の清兵衛は、寛政12年(1800)、息子の佐七とともに江戸に上って藩主・青山忠裕(ただやす)に直訴します。このことで清兵衛は10年の長きにわたり入牢しますが、願意は取り上げられ禁令は解かれました。近代には丹波杜氏の救世主となった清兵衛を顕彰する石碑がゆかりの地に建てられるようになりました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の篠山藩では、酒造奉公などの目的で大坂・伊丹・池田をはじめとする都市部への農閑期の出稼ぎが盛んになりますが、労働力不足を懸念した藩では厳しい出稼ぎ禁止令を出します。
禁令により生活に困窮した村人たちを見かねた丹波国多紀郡市原村(今の兵庫県丹波篠山市)の元百姓(年貢未進がかさみ破産を意味する「分散」となり、当時は人別帳から除外されて「帳外(ちょうはずれ)」の扱いになっていた)の清兵衛は、息子の佐七とともに密かに江戸に上ると、寛政12年(1800)12月14日、篠山藩主・青山忠裕(ただやす)に直訴します。
このことで清兵衛は入牢を命じられ、藩日記によれば自説を曲げず「我意強く申張」ったため、文化8年(1811)3月に釈放されるまでおよそ10年の長きにわたり獄中にありました。
一方で享和2年(1802)8月に藩はこれまでの方針を転換し、秋彼岸から春3月までの「百日奉公」を解禁し、杜氏や脇杜氏に限って30日間の夏稼ぎも認められるようになりました。
市原清兵衛は近代以降は伝統の「丹波杜氏」の功労者として顕彰されるようになり、大正時代に酒造神である京都の松尾大社に「義民市原清兵君碑」が建てられたのを皮切りに、篠山城跡や菩提寺の西方寺、生誕地といったゆかりの場所に、それぞれ石碑が建てられました。
義民清兵衛之碑へのアクセス
名称
- 義民清兵衛之碑 [参考リンク]
場所
- 兵庫県丹波篠山市北新町地内
(この地図の緯度・経度:35.0744, 135.2190) 備考
「義民清兵衛之碑」は、篠山城三の丸跡にあります。篠山城大書院の入口にある篠山小学校正門の向かい側の林地内です。
「義民市原清兵衛菩提之碑」(34.9998,135.0934)は、丹波篠山市今田町今田新田82の西方寺境内にあります。樹齢600年といわれる西方寺のサザンカの脇です。
「義民市原清兵衛生誕の地碑」(34.9959,135.0932)は、西方寺の南400メートルの東条川に架かる高橋の袂にあります。付近にある城山神社と書かれた巨大な赤いタンクが目印です。
「義民市原清兵君碑」(35.0003,135.6875)は、京都府京都市西京区嵐山宮町3所在の松尾大社入口にあたる一の鳥居近く、西京警察署松尾交番の脇に建てられています。
参考文献
[参考文献が見つからない場合には]