大竹半十郎(弘法山公園)
寛政10年正月(1798年)、かねて年貢・諸役の取り立てをめぐり不満をもっていた越後高田藩浅川陣屋支配の村々の百姓5千人あまりが蜂起し、中間搾取の元凶とされた大庄屋や駒付役らの屋敷を打ちこわして浅川陣屋へと迫ります。この一揆を「浅川騒動」と呼びますが、陣屋前で防戦に出た領奉行の伊藤勘左衛門が百姓2、3名を槍で刺殺したのをはじめ、20名以上が犠牲となって鎮圧され、その遺骸は永昌寺の大穴に埋められたといいます。その後は大庄屋らの交替や困窮者への手当などが行われる一方で、一揆の頭取とされた上野出島村(今の福島県白河市)半十郎が弘法山の傍らを流れる社川の河原で打首となりました。現在お盆時期の名物となっている「浅川の花火」は、この「浅川騒動」の犠牲者を追悼する目的で始まったものといわれ、弘法山では永昌寺の住職を招いて慰霊祭が行われています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代中期の寛政9年(1797)、越後高田藩の飛び地として浅川陣屋の支配の下に置かれていた陸奥国石川郡浅川村(今の福島県石川郡浅川町)のあたりでは、春の降雹により田植え前の苗代が大きな被害を受け、困窮した百姓は庄屋を通じて年貢減免を要求しますが、庄屋は上に取り次がず、かえって新たな入用金を課せられる有り様でした。
また、この地方では領主が資金を貸し付けて利息を取る代わりに、百姓が生産した馬をせり(オークション)にかけて利益を回収する「迫駒(せりこま)制」が実施されていましたが、駒せり役金などとして多額の費用を納めなければならず、実務を取り仕切っている駒付役や馬喰らへの不満も鬱積していました。
寛政10年(1798)正月、白河城下に野犬(または狼)が出没し、周辺でも人々の煩いの種となったことから、浅川陣屋からも野犬退治のために鉄砲が残らず貸し出されますが、これを奇貨として浅川領内で一揆を起こす計画が持ち上がります。
正月22日夜、村々に「よき(斧)、鉈、鎌御持参にて御出会可被下候」と八幡館(社八幡神社)への参集を求める落し文が配られ、24日の夜明けには八幡館で大勢の百姓が篝火を焚き、鉄砲を打ち鳴らして気勢を上げる事態となりました。
こうして陸奥国白川・田村・石川・岩瀬の4郡(今の白河市・須賀川市・浅川町ほか)にわたる大規模な一揆「浅川騒動」がはじまり、百姓5千人あまりが中間搾取の元凶と目されていた大庄屋・庄屋や駒付役・馬喰らの屋敷を打ちこわしてまわり、浅川の城山に2日間にわたって立て籠もったほか、ついには浅川陣屋へと迫ります。
領奉行の伊藤勘左衛門は陣屋の役人らとともに出張して百姓らの説得に当たるものの失敗したため、いったん陣屋に退いて防備を固める一方、本藩とともに周辺の白河藩・棚倉藩・三春藩に加勢を要請します。
陣屋の門前では百姓のなかに悪口雑言して石つぶてを投げるなど乱暴をはたらく者があったため、ついに領奉行の伊藤勘左衛門も堪忍しかねて、槍の鞘を外すとその場で百姓2、3人を突き殺し、他の役人らも抜刀して26名が即死ともいわれる大きな犠牲を払う結果となりました。
彼らの遺体はひとまず1か所に人山を築いて見せしめとして晒し置かれ、その後に永昌寺の境内に大穴を掘って仮に埋められたといいます。
ほどなく斬り捨てた者以外は処罰せず、大庄屋や駒付役らは謹慎させ、困窮者には手当を与えるなどの領奉行からの懐柔策が出されたほか、本藩や他藩から数百人規模の加勢が続々と集まってきたこともあって、百姓らは解散してようやく領内は平穏を取り戻しました。
しかしながら、数か月後には当初の約束に反して首謀者の捜索が行われ、白川郡釜子組上野出島村(今の白河市)の半十郎・佐源治・喜曽右衛門の3名が「徒党人」と断定されました。
このうち佐源治は牢死、喜曽右衛門は高田に護送され、半十郎は浅川の弘法山の傍らを流れる社川に架かる橋のたもとで翌寛政11年(1799)に打首となりました。
現在お盆時期の名物となっている「浅川の花火」は、この「浅川騒動」の犠牲者を追悼する目的で始まったものといわれ、戦前には弘法山で打ち上げが行われており、戦後は打ち上げ場所は変わったものの、なお弘法山に永昌寺の住職を招いて慰霊祭が行われています。
弘法山公園へのアクセス
名称
- 弘法山公園 [参考リンク]
場所
- 福島県石川郡浅川町浅川越巻地内
(この地図の緯度・経度:37.0869, 140.4180) 備考
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「弘法山公園」は、JR磐城浅川駅の1キロほど北側の小高い丘で、国道118号沿いの入口には「文殊菩薩堂参道」「弘法山遊園地」の看板や石碑が建てられています。また、丘の上には文殊菩薩堂(昭和時代の建立)と薬師堂(大正時代に移築)が並んでいます。
「浅川陣屋刑場跡碑」(37.0866,140.4178)は、「弘法山公園」に向かう参道の途中から社川の河原に降りた先にあります。
「永昌寺」(37.0843,140.4161)は、「弘法山公園」から見て社川を挟んだ対岸にある寺院です。
参考文献
- 表郷村郷土史
- 高田藩制史研究〈資料編 第2巻〉 (1967年)
- 福島の研究 (3)
- 『新潟県史』通史編4 近世2(新潟県編 新潟県、1988年)
- 『浅川町史』第1巻 通史 各論編(浅川町史編纂委員会編 浅川町、1999年)