義民のあしあと

加賀屋弥左衛門(大山騒動義民供養塔)


江戸末期の弘化元年(1844)、酒所として知られる出羽国田川郡大山村(今の山形県鶴岡市)一帯の天領を庄内藩預りとする幕命が下ります。増税などを恐れた百姓らは江戸で幕府老中に駕籠訴を行うものの聞き届けられず、ついには数千人規模の一揆へと発展しました(「大山騒動」)。結果として一揆勢は敗北し、造り酒屋の加賀屋弥左衛門が獄門、同じく造り酒屋で名主の鈴木庄兵衛が遠島となったのをはじめ、3,500名あまりが処分されたほか、幕府領の庄内藩への引渡しも実行されました。弥左衛門ら重罪人5名は江戸で牢死したといわれ、明治時代に地元有志が供養塔を建立しています。


義民伝承の内容と背景

酒所として知られる出羽国田川郡大山村(今の山形県鶴岡市)一帯は、江戸時代前期には庄内藩酒井家の支藩として大山藩1万石が置かれていましたが、無嗣断絶により幕府領となり、その後は幕府領と庄内藩預り地との間を変遷していました。

天保13年(1842)には幕府領に戻り、尾花沢代官・大貫治右衛門の支配となりますが、わずか2年後の天保15年(1844、弘化元年)2月9日に再び大山を庄内藩預りとする幕命が下り、4月28日に引渡しとなることが決まりました。

これを聞き付けた大山村庄屋で造り酒屋の鈴木庄兵衛をはじめ、大山郷八ヵ村組の村役人らは郷宿に集まり対応を協議しますが、かつての庄内藩支配下での重税や藩士の横柄さに不満があったことから、代官支配の継続を嘆願することになりました。

この2月から4月にかけて、「左衛門尉様(酒井忠発)御領に立戻候様相成候ては、とても安穏に百姓永続無覚束おぼつかなく」として、尾花沢代官所への嘆願活動はもとより、江戸に上った惣代らによる幕府勘定奉行・戸川播磨守や老中・土井大炊頭への駕籠訴なども行われましたが、幕府からは何の沙汰もないままに引渡しの期限が迫ってきました。

ついに4月11日になると、大山村で造り酒屋を営む加賀屋弥左衛門が起草し、同村の修験・成就院永順が書写したとされる「無名の廻文」が村々に回付され、総百姓は大山に参集するようにとの一揆の呼びかけがなされました。

こうして4月26日には田川郡・飽海郡・由利郡内の幕府領73か村の数千人に及ぶ百姓たちが大山村に集まり、鶴ヶ岡城下から大山村に至る街道筋の橋を撤去し竹矢来を結ぶなどして引渡しを実力で阻止する構えを見せたため、庄内藩でも足軽100人を出す騒動となります(「大山騒動」)。

現場では一揆勢を取り鎮めるのが難しかったことから、庄内藩の御預地勘定奉行・林元右衛門が尾花沢代官所から大山陣屋に配属されていた手附・松山粂太郎と会談し、4月28日の引継ぎをひとまず延期することに決定し、ようやく一揆勢は解散します。

ところがこの年の7月になると、幕府の関東御取締出役が大山に出張して関係者を捕縛、越後国の塩野町代官所(今の新潟県村上市)で吟味が行われ、うち鈴木庄兵衛、加賀屋弥左衛門、田中三郎治、九兵衛、喜兵衛の5名は重罪人のため江戸に送られました。

一方で幕府領から庄内藩預り地への引渡しは予定より遅れたものの11月には行われ、結果としてこの一揆は目的を果たせぬままに終わることになりました。

一揆の関係者に対して判決が申し渡されたのは弘化3年(1846)のことですが、加賀屋弥左衛門と田中三郎治が獄門、鈴木庄兵衛と喜兵衛が遠島となったのをはじめ、3,500名あまりが処分されています。

江戸送りの5名は刑の執行を待たずに相次いで牢死したといわれており、明治時代に地元有志が中心となってこの5名の供養塔を金注連庵(今の銅片町集会所)に建立し、観音講を開いてその菩提を弔いました。


大山騒動義民供養塔へのアクセス

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名称

大山騒動義民供養塔 [参考リンク]

場所

山形県鶴岡市大山2-31-40
(この地図の緯度・経度:38.7462, 139.7647)

備考

「大山騒動義民供養塔」は、大山川沿いの金注連庵跡、現在の銅片町集会所敷地内にあります。入口にいくつか並んでいる石塔のうち右側にあるもので、手前に解説板が掲出されています。




参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。

東北地方 加賀屋弥左衛門 大山騒動