山田屋大助(岐尼神社)
江戸時代後期の天保8年(1837)、大坂で剣術指南をしていた山田屋大助らは、「大塩平八郎の乱」に触発され、米の均等配分と徳政を求めて故郷の摂津国能勢郡(今の大阪府豊能郡能勢町)で決起します。「徳政大塩味方」と書かれた幟のもとに2千人ほどの農民が集まったといわれますが、目的を果たせぬまま、摂津国川辺郡木器村(今の兵庫県三田市)の興福寺で追手に包囲されて落命し、付き従ってきた農民たちも散り散りになって終わりました。
主要項目
義民伝承の内容と背景
江戸時代後期の天保8年(1837)、能勢地域では凶作に加えて農間余業となっていた酒造用の薪炭の需要も減少し、農民の困窮は深まっていました。
このような中、同年2月には大坂東町奉行元与力で陽明学者の大塩平八郎が、「救民」の旗を掲げて大阪で大規模な反乱を起こします。
摂津国能勢郡山田村(今の大阪府豊能郡能勢町山田)の出身で、大坂で剣術指南をしていた山田屋大助も、この「大塩平八郎の乱」に触発された一人です。
山田屋大助は今井藤蔵・佐藤四郎右衛門・本橋岩次郎・三津平(本橋と三津は途中で逃亡)と語らい、妙見詣りの名目で大坂を抜け出します。
能勢山を下りて7月2日夜に能勢郡森上村の杵の宮(今の能勢町森上の岐尼神社)を本陣に定めた一同は、村々に廻状を巡らし、神宮寺の早鐘を打って農民を集め、「徳政大塩味方」の幟を掲げさせました。
大助らは稲地村(今の能勢町稲地)庄屋の屋敷に無心に出向いた際に抵抗した番人を一刀のもとに斬り殺し、金や米の供出要求を受け入れずに逃亡した片山村(今の能勢町片山)庄屋の屋敷は諸道具に至るまでことごとく打ちこわしています。
このため、周辺の村々の庄屋や富豪らも彼らを恐れて人足や金銭、酒食を差し出すようになり、最初は数十人だった一揆勢の数は千数百から2千人にまで膨らんだといわれます。
同時代の大坂斎藤町に住む町医者が書き留めた『浮世の有様』には、彼らの口上書が載せられていますが、米価高騰で「百人の内五十人は餓死可仕事」という惨状の中で、国内にある米を人数平均に配給して命をつなぐことと、「帝様」から諸国の領主に徳政令を発することを関白あてに要求しています。
このため、一揆勢は当初は亀山を経て京都へと向かうつもりが、通り道となる名月峠を旗本能勢氏の地黄陣屋に封鎖されたために断念し、7月4日朝に杵の宮を発って西へと進みます。
こうして7月4日には川辺郡左曽利村(今の兵庫県宝塚市)の万正寺に投宿しますが、『浮世の有様』では「其夜萬しやう寺の堂動き、其時大将恐れ刀を抜き空中を切払ひ申候」と、寺が鳴動する怪奇現象(又は地震)があり、夜間に人足400人ほどが逃げ帰ってしまったと伝えています。
やがて一揆勢は大坂鈴木町代官の根本善左衛門らによって追い込まれ、7月5日には川辺郡木器村(今の兵庫県三田市)の興福寺まで逃れて立て籠もったものの、空鉄砲に驚いた農民たちは四散してしまいます。
山田屋大助・今井藤蔵・佐藤四郎右衛門の3人の大将は、もはやこれまでと覚悟を決めて抜刀して突撃するものの、結局は鉄砲で撃たれたり、自決したりして全滅し、一連の「能勢騒動」は目的を果たすことのないまま終わりました。
「能勢騒動」「能勢一揆」「山田屋大助の乱」と呼ばれるこの事件を引き起こした山田屋大助ら大将分3人の遺体は、腐敗防止のため石灰とともに箱に詰められて大坂へと運ばれたほか、一揆に参加した農民も遠島や入牢、追放、過料などの処罰を受けています。
岐尼神社へのアクセス
名称
- 岐尼神社 [参考リンク]
場所
- 大阪府豊能郡能勢町森上103番地の3
(この地図の緯度・経度:34.9686, 135.3931) 備考
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「杵の宮(岐尼神社)」は、国道173号の栗栖交差点を西に500メートルほど進んだ府道6号島能勢線沿いにあります。境内には能勢騒動についても記述のある案内板が立っています。
「地黄陣屋」(34.9573,135.4618)は、豊能警察署の北西150メートルほどの高台にあります。入口には「地黄城址」の小さな看板があり、その先の坂道を進むと石垣が残されています。
「名月峠」(34.9635,135.4231)は、岐尼神社から府道4号茨木能勢線に沿って3キロほど東に進んだ場所にある峠です。平清盛に見初められて福原京に向かう途中、この峠で自害した「名月姫」の墓と伝わる宝篋印塔があることで知られます。現地には能勢町教育委員会が建てた名月姫の解説板とバス停があります。
「万正寺」(34.9393,135.3134)は、宝塚市上佐曽利真ノ本16番地にある真言宗寺院です。隣接した高台には村社素蓋鳴神社が鎮座しています。県道323号上佐曽利木器線と県道319号下佐曽利笹尾線の交差点から北西に300メートルほどの場所で、この交差点には観光案内地図も掲示されていますが、奥まっていてわかりにくいので注意が必要です。
「興福寺」(34.9324,135.2814)は、三田市木器207番地にある曹洞宗寺院です。「万正寺」最寄りの県道323号上佐曽利木器線を3キロほど西に進んだ先にあり、県道沿いの入口には案内標識も出ています。小高い山の中腹に位置し、参道は坂道になっています。境内には県指定文化財の宝篋印塔や板碑がありますが、本堂は建て替えられたため、現在では能勢騒動の際の痕跡を示すものはありません。
参考文献
- 日本庶民生活史料集成〈第11巻〉世相 (1970年)
- 『能勢町史 』第1巻(能勢町史編纂委員会編 能勢町、2001年)
- 『大阪府史』第7巻 近世編3(大阪府史編集専門委員会編 大阪府、1989年)
- 『三田市史』第1巻 通史編1(三田市史編さん専門委員編 三田市、2011年)