義民のあしあと

大塩平八郎(大塩平八郎の墓)


「天保の飢饉」の影響は消費地大坂にも及び、米価が高騰して市中に餓死者が出るようになりましたが、大阪東町奉行の跡部山城守は何ら対策を施さないばかりか、新将軍宣下の儀式の準備として江戸に廻米をする有様でした。元大坂町奉行与力であり陽明学者でもあった大塩平八郎は、政治の乱れを正し貧民を救済するため、天保8年(1837)2月19日、ついに私塾「洗心洞」に通う門弟らとともに挙兵します。この「大塩平八郎の乱」は1日で鎮圧され、大坂市中の5分の1が焼失したほか、乱後しばらく潜伏していた大塩平八郎も自決して終わりを迎えました。明治時代にようやく成正寺に大塩平八郎の墓が営まれ、他にも「洗心洞跡」や「大塩平八郎終焉之地」など、事件を偲ぶ石碑が建てられています。




義民伝承の内容と背景

江戸後期の天保年間には特に東日本を中心とした自然災害が頻発し、未曾有の「天保の大飢饉」が発生しましたが、その影響は消費地である大坂にも及び、天保7年(1836)には米価の高騰により市中に餓死者が出るようになりました。

元大坂町奉行与力であり陽明学者でもあった大塩平八郎は、家督を継いで与力となっていた養子の格之助を通じて、年貢米として収納した蔵米を放出するなどの貧民救済策を建言します。

しかし、大阪東町奉行の跡部山城守良弼はこれを却下し、何ら対策を施さないばかりか、翌年に予定された徳川家慶の将軍宣下の儀式の費用に充てるためとして、飢えに苦しむ市民をよそに大坂から江戸へと廻米をする有様でした。

このような中、大塩平八郎は蔵書をすべて売却して得た資金を貧民に分け与えるとともに、大筒や鉄炮、焙烙玉などの火器を密かに調達し、私塾「洗心洞」に集う門人たちに訓練を施すなどして、着々と決起の準備を進めます。

大塩門人で与力の瀬田斉之助からの情報として、天保8年(1837)2月19日に新任の西町奉行・堀伊賀守利堅が東町奉行の跡部良弼と市中を巡検し、与力・朝岡助之丞の屋敷で休息する日程であることを掴んだ大塩は、この日に跡部らをまとめて襲撃することを企てます。

ところが直前の2月17日になって、門人で町目付の平山助次郎がこの計画を跡部に密告したため、やむなく予定を繰り上げることとなり、2月19日朝五つ時(7時頃)、自邸(洗心洞)に火をかけたのを合図に決起し、向かいの朝岡邸や川崎東照宮に大筒を放ちます。

決起の際の檄文には、「此度有志のものと申合、下民を苦しめ候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持の町人共を誅戮におよび可申候間、右之者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に置候俸米、夫々分散配当いたし遣候」とあり、庶民を苦しめる役人や驕り高ぶる豪商らを討伐し、彼らの隠し財産を庶民に分配するという意図が記されています。

「救民」の旗を掲げた大塩と門人ら20数名は、与力町に放火した上、天神橋を経由し大坂城を目指して進もうとしたものの、役人が天神橋を切り落とし進路を妨害したため、難波橋に迂回して船場へと繰り出し、鴻池善右衛門ら豪商の屋敷を焼き討ちして、奪った米や金銭を貧民たちにばら撒きました。

このころには近郷から駆けつけた農民らも合わせ、一揆の人数は300人ほどになったといいますが、大坂城に向かう途中で大坂城代・土井大炊頭利位の軍勢と交戦、その激しい銃撃を受けて四散し、わずか1日にして鎮圧されてしまいました。

この「大塩平八郎の乱」では大坂市中の5分の1にあたる2万軒が類焼して俗に「大塩焼け」と呼ばれましたが、当時大阪に住む医師が記した『浮世の有様』によれば、「此度思ひがけなく焼打にせられ、難渋に及べる者も、多くは大塩様々々々といひて之を恨める色なく」と、罹災した庶民は大塩のことを決して恨まなかったといいます。

大塩平八郎と格之進はその後靱油掛町にあった商人の美吉屋五郎兵衛の店に押し掛け匿われていましたが、密告によって土井利位麾下の捕手に包囲されたため、3月27日朝に火薬で自爆して果て、同じく『浮世の有様』によれば、その遺体は「大塩親子の屍真黒に焦れし事故、其形分り難く」という状況でした。

「大塩平八郎の乱」の衝撃は大きく、その後も自称「大塩門弟」による越後柏崎の「生田万の乱」や摂津能勢の「山田屋大助の乱」などの反乱が起きたほか、天王寺の龍渕寺境内にある医師・秋篠昭足の墓碑に「大塩父子避跡欧羅巴」(大塩父子、跡をヨーロッパに避く)とあるとおり、大塩生存説も巷に流布していました。

天保9年(1838)8月21にようやく裁決が下され、大塩平八郎以下19名が市中引き回しの上飛田刑場で磔となりますが、既にほとんどが自決や牢死で亡くなっており、うち存命だったのは門人で弓奉行同心の竹上万太郎ただ一人でした。

平戸藩主の松浦静山が記した『甲子夜話』には、大阪帰りの相撲取りから聞いた話として、「又大塩以下。塩漬の死体は何にと聞けば。何れが平八かも分ち難く有しが。皆塩詰の枯骸を早桶の中に入れて。腰より上見ゆる如くして。棒を以て二人して荷ぎ行たりと。」と、塩詰めにされていた人相も判別できない黒焦げの焼死体を市中で見せしめにしたことが記されており、さらに刑場でわざわざ磔柱に掲げている異様な挿絵も載せています。

江戸時代には公に弔うことも憚られた大塩平八郎ですが、明治・大正時代にようやく成正寺境内に大塩平八郎及び格之進の墓が営まれ、他にも「洗心洞跡」や「大塩平八郎終焉之地」などに事件を偲ぶ石碑が建てられています。


大塩平八郎の墓へのアクセス

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名称

大塩平八郎の墓 [参考リンク]

場所

大阪府大阪市北区末広町1-7
(この地図の緯度・経度:34.7001, 135.5100)

備考

「大塩平八郎の墓」は、大阪メトロ南森町駅から300メートルほど北に位置する成正寺の本堂右手にあります。「中斎大塩先生墓」とあるのがそれで、養子の「大塩格之助君墓」と並んでいます。現在の墓石は戦後新たに再建されたものです。境内裏手には大塩家の先祖の墓もあります。


大塩平八郎終焉之地碑」は、大阪市西区靱本町1丁目の靭公園内にあります。もとは現在地よりも150メートルほど南にありましたが、工事のため移転されました。


洗心洞跡碑」は、大阪市北区天満1丁目の造幣局官舎北1棟の角にあります。同じ官舎の敷地内には、東町奉行配下の天満与力の中嶋家の門が復元されています。


大塩の乱槐(えんじゅ)跡碑」は、「洗心洞跡碑」の目の前の国道1号沿いにあります。なお、もとは朝岡助之丞邸にあったという当時の砲撃の跡がある槐の木はすでに枯死して伐採されています。


川崎東照宮跡碑」は、「洗心洞跡碑」から北西150メートルに位置する、現在の大阪市立滝川小学校の正門脇にあります。


東町奉行所址碑」は、現在の大阪合同庁舎第一号館の敷地の一角にあり、すぐ左側が大阪城公園となっています。




参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

近畿地方 大塩平八郎 大塩平八郎の乱