折立長老碑(折立長老と遠山騒動)

折立長老碑 義民の史跡
遠山氏滅亡伝説に関わる僧侶の顕彰碑
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江戸時代初期、旗本・遠山景直の悪政に苦しむ信濃国伊那郡遠山郷(今の長野県下伊那郡・飯田市一帯)の百姓らは、幕府に直訴するための訴状の作成を浄林寺住職の「折立長老」に依頼します。ところが、密告により捕われて拷問を受けた長老が元和4年(1618)に亡くなると、これに怒った百姓らは一揆を起こし、居城を襲って遠山氏を滅亡させたと伝えられます。昭和8年(1933)、この「遠山騒動」の3百年忌を契機に石碑が建てられ、犬養毅元首相が題字を揮毫しました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の初め、信濃国伊那郡遠山郷の領主である旗本・遠山景直は、京枡の2倍以上もある「遠山枡」を使って年貢米を計量するなど、厳しい年貢の取立てによって百姓を苦しめていました。

そこで遠山郷の百姓らは密議の上、遠山氏の悪政を公儀(幕府)に直訴することとし、願文の作成を元武士で折立寺の住職を務めていた「折立長老」に依頼しました。

ところが、密告により直訴の一件が遠山氏に知られてしまい、捕らえられた折立長老は飯島(今の飯田市)の地で1日当たり1本の指を切断されるという拷問を受け、元和4年(1618)の4月に亡くなってしまいました。

百姓はこれに怒って一揆を起こし、遠山氏の居城である和田城へ押し寄せて夜討ちを仕掛け、遠山氏の一族を全滅させたと伝えられ、これを「遠山騒動」と呼んでいます。

また、当主に代わって江戸に赴いていた遠山景道は、元和8年(1622)、帰郷途中の大河原(今の下伊那郡大鹿村)にさしかかったとき、百姓らの待伏せを受けて石で打たれて殺害され(「遠山様の石子詰」)、死後祟りをなすので鎮魂のために遠山八幡社に祀り、「遠山郷の霜月祭り」を奉納するようになったという別の伝承もあります。

以来、地元には折立長老の墓が残されてきましたが、長老三百年忌を契機に折立長老の事績を改めて顕彰しようとする動きが生まれ、大正8年(1919)、地元青年団が呼び掛けて資金を募り、新たに犬養毅元首相の題字による「折立長老碑」が建立されました。

参考文献

『信濃農民史考』(小林郊人 信濃毎日新聞社出版部、1946年)
『信濃の百姓一揆と義民伝承』(横山十四男著 郷土出版社、1986年)

折立長老碑の地図とアクセス

名称

折立長老碑

場所

長野県下伊那郡天龍村平岡地内

備考

三遠南信自動車道「天龍峡インターチェンジ」から車で40分、「折立」バス停から橋を渡り急坂を登って送電鉄塔あ近くの集会所脇へ。

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