義民のあしあと

百姓一揆義民年表



近世を中心とした歴史的に重要な出来事、百姓一揆やその顛末を記載した年表です。



百姓一揆義民年表
西暦年号歴史的事件または伝承
1600年慶長5年関ヶ原の戦い
1603年慶長8年徳川家康に将軍宣下、江戸開府
1608年慶長13年山代慶長一揆 毛利氏の慶長検地で73%の重税を課せられた周防国山代地方で、北野孫兵衛はじめ庄屋11名が愁訴。税率は40%に軽減されたが首謀者11名全員が引地峠で処刑。
1609年慶長14年琉球侵攻
生瀬騒動(生瀬乱) 常陸国久慈郡小生瀬村(今の茨城県久慈郡大子町)でニセ役人に年貢を騙し取られたが、後から来た本物を勘違いで殺害した、あるいは最初から百姓が徒党を組んで役人殺害を目論んだといい、水戸藩は報復のため芦沢伊賀守に藩兵を率いさせて村を三方から包囲、地獄沢に百姓らを追い詰め一村成敗(皆殺し)にしたという。発生年は諸説あるが水戸藩の学者・高倉逸斎らが伝説を記録している。
1612年慶長17年キリスト教禁止令
1613年慶長18年慶長遣欧使節
1614年慶長19年大阪冬の陣
1615年元和元年大阪夏の陣、豊臣家滅亡
武家諸法度・禁中並公家諸法度
1622年元和8年元和の大殉教
1623年元和9年徳川家光に将軍宣下
1624年寛永元年スペイン船来航禁止
1630年寛永7年片平騒動 伊予国久米郡片平村で干魃が発生し、里正(庄屋)の今村久兵衛が検見と年貢減免を代官に願い出るが認められなかった。村人が田に火を掛けて不作の稲を燃やすと、課税逃れを疑った松山藩により多数の農民が捕縛された。今村久兵衛は自分が放火したと藩庁に申し出て身代わりに磔刑に処せられた。
1633年寛永10年白岩一揆(~1638年) 出羽国村山郡白岩郷(今の山形県寒河江市)の百姓が旗本・酒井忠重の苛政を23か条にまとめた「白岩目安」をもって幕府に直訴し、忠重は改易されて代官支配となる。しかし、その後の状況が変わらず、寛永15年(1638)に再び一揆が起きるが、山形藩主・保科正之の計略で百姓36人が騙されて捕らえられ、幕府の裁定を待たず、保科正之の独断で山形城下の広河原において全員が磔刑に処せられた。
1635年寛永12年参勤交代
1637年寛永14年島原・天草一揆(島原の乱) 過酷な徴税とキリシタン迫害に耐えかねた島原半島・天草諸島の民衆3万7千人が天草四郎を総大将に蜂起、原城に籠城するも幕府軍により全滅させられ、以後鎖国政策がいっそう進んだ。
1639年寛永16年ポルトガル船来航禁止
1641年寛永18年オランダ商館の出島移転
1642年寛永19年寛永の大飢饉(~1643年)
1643年寛永20年田畑永代売買禁止令
1651年慶安4年慶安事件(由比正雪の乱)
1652年承応元年小浜藩領承応元年一揆 小浜藩の年貢引上げに対し、庄屋らが多年にわたり引下げを訴願。藩に捕縛されながら訴えを取り下げない新道村庄屋の松木庄左衛門だけが磔刑となるが、年貢は旧率に戻された。
佐倉惣五郎一揆 公津村の木内惣五郎が重税に苦しむ百姓に代わり佐倉藩の悪政を将軍に直訴し、妻子ともども処刑されたと伝わる。後に藩主・堀田正信が改易されたのは惣五郎の祟りとされ、堀田家でも口の明神に惣五郎を祀った。後に『佐倉義民伝』として歌舞伎や講談・浪曲などの文芸のモチーフとして大衆に広まった。
1657年明暦3年明暦の大火
1666年寛文6年寛文目安越訴事件(信夫目安事件) 末期養子で領地を半減された米沢藩では、預地の出羽国屋代郷で激しい収奪を行ったため、二井宿村肝煎の高梨利右衛門が藩政批判と幕府直轄を求める「寛文目安」(信夫目安)を書き信夫代官所に越訴した。高梨利右衛門は処刑されるが直轄領に戻り、後に徳を讃える「大酬恩碑」が建てられた。ただし、伝説が史実に合わないとする説もある。
1669年寛文9年シャクシャインの乱
1674年延宝2年二斗八騒動(信濃国松代藩領延宝二年一揆) 松代藩では籾1俵あたり2斗8升から3斗に年貢を引き上げようとしたため、善光寺平の名主が合議し幕府に直訴する。水内郡高田村の助弥らが松代藩により処刑されるが、その際「二斗八だぞ」と叫んだといい、「二斗八様」として祀られた。
1677年延宝5年(宝暦)郡上一揆 定免法から検見法への変更に反対した領民が郡上藩に強訴、藩は訴えをいったん認めるが、幕府郡代を通じて庄屋に外圧をかけて一揆が再燃、幕府老中への駕籠訴、評定所の吟味を経て、金森家改易、老中失脚、切立村喜四郎らの獄門といった大事態に発展。
延宝騒動(仁左衛門騒動、笹子騒動) 生駒領の出羽国矢島郷は江戸の領主に代わり山本一家が支配していたが、検地で石増しの上増税を強いたことから、百姓が江戸表に直訴、山本一家は切腹を命じられ年貢も従前に戻された。代わって主導権を握った城代家老の市橋彦兵衛も同様の搾取を続けたため、笹子仁左衛門らが再度直訴して領主の朱印状を得るも、城代家老により処刑・謀殺される。その後逃散した領民が戻らず、やむなく年貢は元に戻された。
1681年天和元年磔茂左衛門一揆 上野国利根郡月夜野村百姓の杉木茂左衛門が沼田藩真田家の悪政を幕府に直訴、真田家は改易となるが、茂左衛門自身も密告により捕らえられて磔刑に処せられる。いわゆる代表越訴型一揆の典型で、茂左衛門は死後千日堂に祀られ、明治時代に戯曲化された。
1686年貞享3年貞享騒動(加助騒動) 信濃国安曇郡中萱村の元庄屋・多田加助らが郡奉行に年貢減免を愁訴する計画を聞きつけた農民1万人が松本城下で打毀しを行い、加助は頭取として磔刑に処せられた。後に水野家が改易となったのは加助の怨霊の仕業と恐れられ、享保年間に加助を祀る小祠が建てられ、現在の貞享義民社となる。
1687年貞享4年生類憐れみの令
1690年元禄3年山陰一揆 日向国延岡藩では、臼杵郡代梶田十郎左衛門の圧政に耐えかねた山陰村民1422人が隣の高鍋藩に逃散し、幕府評定所の裁定で百姓越度として頭取・善助および市兵衛が磔になるなど多数が処罰されたが、藩主・有馬清純は糸魚川に転封されて天領となり、郡代も追放された。
1702年元禄15年赤穂事件
1708年宝永5年水戸藩宝永一揆 財政難の水戸藩では松波勘十郎を登用して宝永改革を始めるが、紅葉運河・大貫運河の開削に駆り出された農民の事故死や賃金未払いから一揆が発生、支藩・守山藩の江戸藩邸に1500人が強訴した。上吉影村庄屋・市毛藤衛門と奉行らの直接対決で農民が勝利、松波勘十郎は追放、のち獄死した。
1709年宝永6年正徳の治
1710年宝永7年浮石義民事件 長府藩の筆頭家老・椙杜元世の給地であった長門国豊浦郡浮石村(今の山口県豊浦郡豊田町)では重税に苦しみ、給庄屋の藤井角左衛門らが幕府巡見使に直訴して年貢は平年通りとなったが、直訴をした5人は藩に引き渡され斬首された。
1711年正徳元年万石騒動 財政難の安房北条藩1万石の藩主・屋代忠位は家老に川井藤左衛門を登用するが、年貢増徴による百姓の反発は大きく、江戸藩邸での門訴や幕府老中への駕籠訴に発展した。門訴事件の頭取となった湊村角左衛門・国分村長次郎・薗村五左衛門の名主3人は斬罪となるものの、幕府評定所の詮議を経て、川井は死罪、屋代家は改易となった。
1712年正徳2年与茂七騒動 越後国蒲原郡中之島村(今の新潟県長岡市)の名主・大竹与茂七は、大庄屋の不正を新発田藩に訴えるが、釘抜きで歯を抜かれるという拷問の末、大庄屋へ非義申掛けたとの罪状で獄門となる。享保4年(1719)の新発田城下の大火は怨霊による「与茂七火事」と噂された。
1716年享保元年徳川吉宗に将軍宣下
享保の改革
バンドリ一揆 加賀藩の特権商人・六軒問屋に反発する越中国放生津町(今の富山県射水市)の漁民400人が金沢城下に強訴し、六軒問屋廃止や魚市場開設の成果を勝ち取るが、惣代となった佐賀野屋久右衛門と嵐屋四郎兵衛は、六軒問屋から役人への賄賂などを批判して放生津西浜で処刑された。
1717年享保2年新本義民騒動 備中国下道郡新庄村・本庄村は1万石の小藩の岡田藩領だったが、入会山をお留山として藩に接収されたため農作業に困難を来たし、藩に嘆願して一部が開放された。その後樹木の無断伐採の嫌疑で庄屋が捕縛されて藩との対立が深まり、惣代4人が江戸の藩主に直訴し、訴えは認められたが4人は飯田屋河原で処刑された。
1718年享保3年享保の一揆 広島藩主・浅野吉長の藩政改革で正徳新格が発布され、従来の代官に代えて豪農を所務役人・頭庄屋とし、定免制を採用するなどの地方支配の強化が図られたことに領民が反発、安芸・備後両国で30万人が参加する大一揆に発展した。農民の要求は認められて改革は失敗するが、一揆の頭取とされた中祖村安左衛門は獄門となった。
1719年享保4年相対済令
1720年享保5年南山御蔵入騒動(南山一揆) 南山御蔵入領と呼ばれた幕府直轄の南会津地方は、生産性の低い山がちの地形のため、年貢やその輸送の負担が大きかった。このため年貢減免や石代納を求めて百姓が田島代官所に強訴したが、権限がないと取り合わなかったので代表が江戸に上り直訴した。南会津一帯は会津藩の預地となり実質的に要求は実ったが、小栗山村喜四郎らが晒首となった。
1721年享保6年目安箱の設置
1722年享保7年上米の制
頸城騒動(越後質地騒動) 幕府が発した流地禁止令を契機に、越後国頸城郡の天領の百姓が質流れの田畑を取り戻そうと実力行使に出たため、吉岡村市兵衛が磔刑になるなど多数の百姓が処罰され、流地禁止令も撤回された。
1723年享保8年足高の制
長瀞騒動(長瀞質地騒動) 幕府が発した流地禁止令を契機に、天領だった出羽国長瀞村の百姓らが傘連判状をとって質流れの田畑を取り戻すべく名主を脅したため、新兵衛および喜右衛門が磔になるなど百姓多数が処罰され、流地禁止令も撤回された。
1726年享保11年山中一揆 津山藩では藩主が夭折し御家断絶の危機が迫る中、大庄屋が郷蔵の米を密かに運び出そうとしたところを百姓が発見し、大庄屋宅の打毀しや藩兵との戦闘を含む、美作西部の山中地方を中心とする4千人規模の惣百姓一揆に発展、藩による鎮圧の過程で51名が処刑された。翌年に山中地区は天領となった。
1732年享保17年享保の大飢饉
1738年元文3年磐城平元文一揆 磐城平藩の課税強化に反対する中神谷村武左衛門・柴原村長次兵衛ら2万人が城下に押し寄せ町会所などを打ちこわす。藩は百姓の要求を受け入れるも後に指導者を逮捕・処刑。この一揆が原因で内藤家は日向国に転封。
1739年元文4年鳥取藩元文一揆(勘右衛門騒動) 鳥取藩では凶作にもかかわらず郡代・米村広当が破免せずに厳しく年貢を取り立てたことから、5万人が参加する藩政史上最大の惣百姓一揆に発展、首謀者として八東郡東村の松田勘右衛門らが処刑されたほか、百姓に同情した藩士・上野忠親らも閉門となった。
1742年寛保2年公事方御定書
1746年延享3年馬原騒動 天領の豊後国日田郡・玖珠郡では代官が定免制や助合穀制を導入し百姓の困窮が深まったため、日田郡馬原村(今の大分県日田市)庄屋・穴井六郎右衛門らが江戸で年貢減免と夫食米借用を求めて越訴に及び、訴状は受理されるものの、一旦帰国したところを捕縛されて死罪獄門に処せられた。
1749年寛延2年姫路藩寛延一揆(播磨寛延一揆) 姫路藩では朝鮮通信使接待のための御用金賦課や台風による凶作で百姓の負担が増大し、1万人規模の全藩一揆が発生、庄屋や商人宅を打ちこわし姫路城下に迫るが、藩は大坂町奉行からの加勢を得て鎮圧する。一揆後に滑甚兵衛が磔、ほか死罪や遠島など多数が処罰された。
山外郷一揆 常陸国笠間藩では凶作下で定免法への切替えを強行しようとしたため、磯部村名主で磯部神社神主の清太夫らが頭取となり、山外郷27か村1千人が笠間城下で強訴を行う。藩主病没の混乱下でいったんは百姓の要求が認められるが、その後態度を一変させて清太夫らを処刑した。
1750年寛延3年西讃百姓一揆(讃岐寛延一揆) 丸亀・多度津両藩では水害や干魃が酷く年貢減免を求めたが認められなかったため、那珂郡帆山村の郷士・小山耕雲斎が開く私塾の門下生らを中心に密議が行われ、子の小山金右衛門ら6万5千人が参加という大規模な一揆に発展した。小山金右衛門はじめ連座を含め12人が処刑された。刑死者の怨霊「七人童子」の伝説が残る。
1752年宝暦2年飯野八兵衛騒動(芋八騒動) 三河国挙母藩で国替えに伴う城普請や検地などが重なり、千人以上の農民が江戸藩邸に押しかけて強訴、税の減免や3年間の定免制などが認められるものの、頭取として飯野村の山本八兵衛らが捕縛され打首となる。
1753年宝暦3年籾摺騒動 宇都宮藩の年貢増徴に反対して宇都宮城下の八幡山に4万5千人の百姓が集結して打毀しを行い、頭取として御田長島村庄屋の鈴木源之丞らが捕らえられて打首となる。後年に起きた大洪水は怨念による「源之丞洪水」と恐れられ、「喜国大明神」に祀られた。
西条騒動(西条三万石騒動) 伊予国西条藩では年貢率が35%から45%へと増税されたことから、新居郡内の百姓が加茂川原に集まり藩庁に強訴、村上平兵衛・高橋孫兵衛・高橋弥市左衛門が頭取として処刑され、後に三義民と呼ばれる。
1754年宝暦4年久留米藩大一揆(宝暦一揆) 財政難の久留米藩が8歳以上の領民に人別銀を課したことに反発し、数万人の農民が筑後川の八幡河原に集合、庄屋宅の打毀しなどを含む全藩一揆となり、藩は人別銀を撤回した。その後責任者の追及が始まり、御原郡大庄屋・高松八郎兵衛はじめ37名が処刑された。
1756年宝暦6年藍玉一揆(五社宮一揆) 徳島藩では葉藍取引税の徴収や許可者以外の取引を認めない寝床株制度の導入などの専売制強化を図ったため、阿波国名西郡高原村(今の徳島県石井町)の先規奉公人の山口吉右衛門ら5人を中心に、吉野川流域の名東・名西・板野・麻植4郡の藍作農家が徳島城下への強訴を計画、未遂のまま捕縛され磔刑に処された。天明年間に五社明神として祀られ、藍玉の神と慕われた。
宝暦一揆 加賀藩の藩札発行によるインフレや洪水による凶作が重なった能登国宇出津組(今の石川県鳳珠郡能登町)では、千人もの百姓が加賀藩の十村役であった源五宅を襲撃、中斉村甚左衛門はじめ7人が責任を負って獄死する。宝暦8年(1758)にも宇出津組で年貢米の不足が摘発され、寺分村勘十郎らが責任を負って入牢、獄死している。
1758年宝暦8年重清騒動 阿波国美馬郡重清村(今の徳島県美馬市)で組頭庄屋(大庄屋にあたる)の不正があったため、組頭の妻お秀が頭取となって徳島藩家老に直訴、組頭庄屋は追放されるが、秀は鮎喰河原で打首となり、夫も後を追って自害したという。
1761年宝暦11年上田騒動(上田藩宝暦騒動) 上田藩では検見役人の不正摘発や年貢・夫役の軽減を求めて1万3千人規模の惣百姓一揆が発生、上田城下で打毀しをするが、家老・岡部九郎兵衛が江戸表に注進する旨を約束して終息した。百姓の要求はほぼ通ったが、夫神村組頭の中沢浅之丞と百姓・清水半平が死罪となった。
1764年明和元年伝馬騒動 幕府が中山道沿いの村々に増助郷を課したことへの反発から、武蔵・上野・信濃・下野の4か国20万人が参加する大一揆に発展、熊谷宿などが打毀しの被害を受けたほか、一揆勢が江戸に向け進撃したため、幕府は増助郷を撤回し、関村名主・遠藤兵内を首謀者として獄門に処した。
1770年明和7年西領騒動(忍足佐内事件) 安房勝山藩では干魃のため御国奉行・稲葉重佐衛門と代官・藤田嘉内に年貢減免を求めるもかえって賄賂を要求され果たせなかったため、金尾谷村名主の忍足佐内らが江戸屋敷に年貢減免や役人罷免を訴願し打首となるが、親族が幕府老中に駕籠訴してようやく稲葉・藤田の追放や藩政改革が実現した。
蔵川騒動 大洲藩領の喜多郡蔵川村で凶作のため年貢減免を求めるも認められずに百姓160名が宇和島藩領に逃散。藩では責任追及のため庄屋以下多数を捕縛したことから、吉右衛門・新之丞が名乗り出て斬罪、荒間地峠に梟首となった。
1771年明和8年大原騒動(~1788年) 飛騨代官・郡代である大原彦四郎・亀五郎父子の悪政に対して明和・安永・天明の各時期に一揆が発生。検地強化をめぐる安永騒動が最大で1万人が参加するが、頭取の本郷村善九郎が獄門など百姓側の多大な犠牲を出し、一揆を鎮圧した大原彦四郎は逆に郡代に昇進した。大原亀五郎の不正に端を発した天明騒動では亀五郎が八丈島に流罪となった。
虹の松原一揆 唐津藩主・水野忠任の年貢増徴政策を旧慣無視として反発した農民・漁民2万5千人あまりが蜂起、唐津藩領と幕府領との境界にあたる虹の松原(当時の呼称は二里松原)に集結、平原村大庄屋の冨田才治の指導の下で無血裏に要求を実現する。しかし、その後の藩の処罰は厳しく、自首した冨田才治含め4名が斬首の上晒し首となった。
1772年安永元年田沼意次が老中になる
1774年安永3年杉田玄白が『解体新書』を出版
1779年安永8年助六一揆(安永の一揆) 過重な年貢や助郷役の負担に耐えかねた常陸国新治郡の本堂氏領25か村の百姓が江戸屋敷に強訴、頭取の下佐谷村助六が獄門となった。助六は死後に閑居山の助六地蔵に祀られた。
1781年天明元年絹一揆 上野・武蔵両国で開かれていた絹市への改料徴収に対し、副業で絹織物を生産していた百姓が反発して打毀しが発生、一揆勢が高崎城を包囲したが、幕府が絹改会所の廃止を決めたので終息した。一揆の頭取として白倉村清助が八丈島に遠島となった。
1782年天明2年天明の大飢饉(~1787年)
縄方騒動(淡路国徳島藩領天明二年一揆) 徳島藩支配下の淡路島では縄の供出や木綿の専売制強化などにより農村が疲弊し、多数の農民が庄屋宅に押しかけて廃止を迫った。徳島から役人が出張して取調にあたり、新法は廃止されたが、徒党強訴の頭取として淡路国三原郡広田宮村才蔵、山添村清左衛門の両名が斬首獄門となった。
1783年天明3年御厨一揆 天候不順による凶作を理由に駿河国駿東郡の百姓5百人が小田原藩に年貢減免の強訴をしようとし、箱根関所の手前で説得に応じて引き返す。結果としてわずかに減免が認められるが、頭取として萩原村久右衛門が死罪となる。久右衛門は死後他の関係者とともに「四相権現」として萩原神社に祀られた。
1785年天明5年伏見騒動(天明伏見義民一揆) 伏見奉行・小堀政方は藩財政の補填と自身の贅沢のために伏見町民に11万両もの御用金を賦課したことから、伏見元町年寄の文殊九助ら7人が寺社奉行への駕籠訴に及び、小堀政方は改易されたが、文殊九助らは牢死した。
1787年天明7年松平定信が老中になる
寛政の改革
1789年寛政元年棄捐令
1790年寛政2年寛政異学の禁
1792年寛政4年ロシア使節ラクスマンが根室に来航
1793年寛政5年武左衛門一揆 宇和島藩の支藩である伊予吉田藩の紙専売制に反対し、上大野村百姓・武左衛門が桁打ち(浄瑠璃語り)に身をやつして領民を説得、一揆を組織して1万人近くが宇和島城下に迫った。宇和島藩家老・安藤継明は責任をとり一揆勢の面前で切腹し、宇和島藩の仲介で百姓の要求は果たされるが、後に武左衛門は獄門となった。
1804年文化元年ロシア使節レザノフが長崎に来航
牛久助郷一揆(女化騒動) 水戸街道の交通量増加に対応した助郷の拡大に反対し、小池村百姓・勇七らが頭取となり、女化原に6千人が集まる一揆が発生、助郷拡大を幕府に願い出た牛久宿の麻屋治左衛門宅などを打ちこわしたが、土浦藩や佐倉藩が出兵したため解散。小池村勇七らは牢死し、増助郷は免除されなかった。
1808年文化5年間宮林蔵が樺太探検
1812年文化9年文化一揆 重税に苦しむ豊後国海部郡の山間部の百姓4千人が大庄屋の屋敷などを打ちこわし、願望拾ヶ条を掲げて佐伯藩に対して強訴に及ぶ。藩は救荒名目で農民に拠出を強制していた助合銀の廃止などを約束して一揆は沈静化。のち百姓杢右衛門と文七が頭取として刎首獄門となる。
1813年文化10年民次郎一揆 弘前藩では文化露寇後の蝦夷地警備や冷害によって百姓の年貢の負担が高まり、2千人が弘前城下に押しかけ強訴する一揆が発生した。藩は蔵米放出や年貢減免などを決めるが、鬼沢村の藤田民次郎が首謀者として名乗り出て斬首された。
1821年文政4年『大日本沿海與地全図』(伊能図)完成
1822年文政5年宮津藩文政一揆 藩主・松平宗発の猟官運動で財政が窮乏した宮津藩では、沢辺淡右衛門らの主導で年貢先納や万人講とよばれる日銭の賦課が行われたため、これに反対した農民が大挙して宮津城下で打毀しを行った。頭取として吉田為治郎・吉田新兵衛が処刑されたほか、農民に加担したとして藩士の関川権兵衛も死罪となっている。
1825年文政8年異国船打払令
1828年文政11年シーボルト事件
1831年天保2年防長大一揆 長州藩が産物会所を設置して専売制を強化したことに絡み、参加者10万人以上ともいわれる周防・長門両国にまたがる全藩一揆が発生し、各地の庄屋宅が打ちこわされ、藩兵が鎮圧に当たった。これを気に藩主・毛利敬親の下で家老・村田清風による専売制廃止や藩債整理などの天保改革が加速した。
1833年天保4年天保の大飢饉(~1839年)
1834年天保5年水野忠邦が老中となる
志戸崎騒動(坂村大騒動) 常陸国新治郡坂村の名主が土浦藩出役(代官)と結託して年貢米を不当に徴収した疑惑があり、密かに調べていた百姓・貝塚恒助が捕縛されたことから、東郷名主惣代・細野冉兵衛が逆に役人を捕縛する騒動が起きた。細野冉兵衛は牢死、貝塚恒助は打首となったものの、出役も追放、庄屋は御役御免となった。
1836年天保7年郡内騒動(甲斐一国騒動・天保騒動) 甲斐国都留郡下和田村百姓・森武七は、米価高騰から百姓を救うため、徒党を組んで米商人を威迫し米を前借りしようとするが、途中で無宿人が合流するなどして統制が乱れ、甲斐全土にわたる打毀しに発展する。武七は磔刑と決まるがすでに牢死しており、他にも多数の処罰者が出た。
加茂一揆(鴨騒動) 三河国加茂郡で凶作や米価高騰を契機とした一揆が勃発、額田郡を合わせ1万人規模に拡大し、世直しを称して酒屋などを打ちこわしながら挙母城下に迫るが、鉄砲隊により鎮圧される。頭取の松平辰蔵は獄死した。
1837年天保8年大塩平八郎の乱
1838年天保9年佐渡一国一揆 幕府巡見使来訪の際、上山田村善兵衛が佐渡一国惣代として佐渡奉行への不満を訴状に認め提出したところ捕縛されてしまい、これを契機として数万人が小木の問屋や米屋などを打ちこわす一揆に発展した。善兵衛は江戸伝馬町に送られ牢死した。
1839年天保10年蛮社の獄
1841年天保12年天保の改革
株仲間の解散
1842年天保13年近江天保一揆(三上騒動、甲賀騒動) 打ち続く飢饉の中、年貢増徴を目論む幕府は琵琶湖岸の新開地の検地のため勘定方・市野茂三郎を派遣したが、間竿の不正・収賄・大藩への忖度・接待強要など目に余る振舞いがあり、野洲・甲賀・栗太3郡4万人による惣百姓一揆を惹起した。市野は三上山の洞窟に逃亡し、一揆勢は検地役人から「十万日日延べ」証文を勝ち取ったが、後日の厳しい取調べで発頭人の三上村庄屋・土川平兵衛ら多くが牢死した。
1843年天保14年人返し令
1847年弘化4年三閉伊一揆(~1853年) 盛岡藩主・南部利済の悪政に対し、三陸沿岸の三閉伊通の百姓1万2千人が決起、切牛の佐々木弥五兵衛指導のもと新税撤廃などを要求して遠野城下に強訴。藩はいったん百姓の要求を認め、藩主は隠居する。しかし弥五兵衛は牢死し、南部利済は復権して院政を敷き、約束も破られたため、嘉永年間に畠山太助や三浦命助らの指導で百姓1万6千人が仙台藩に越訴、税の減免などを認めさせた。
弘化大一揆 肥後国天草では島原の乱以降の特殊事情に鑑み、質入れ地を元金返済だけで請け戻せると定めた百姓相続方仕法が発布されたが、その期限延長に絡んで古江村庄屋・永田隆三郎を頭取とする1万5千人規模の一揆が発生、高利貸しなどの打毀しを行う。法界平等の思想を掲げた点が特徴的だが、一揆後農民多数が捕縛され、永田隆三郎は獄門となった。
1853年嘉永6年浦賀にペリーの黒船来航
ロシア使節プチャーチンが長崎に来航
1854年安政元年日米和親条約
多良間騒動(アコーメ事件) 琉球国多良間島では、砂川大主らの役人が二重課税で私服を肥やしていたため、蒲戸砂川らが島を脱出して首里王府に直訴した。不正役人は処罰され、生命を惜しまず島民の苦を救ったとして蒲戸砂川らが官位を賜った。
1858年安政5年日米修好通商条約
安政の大獄
安政の泣き一揆 米価高騰に困窮する民衆2千人が観音の縁日の雑踏に紛れて金沢城近くの卯辰山に登り、城に向かって「ひもじい喰われん」などと絶叫した。藩では御蔵米を放出するなどして沈静化させるが、その後加越能3国に拡大して「安政の三州大一揆」へと発展する。首謀者として能美屋佐吉ら7名が捕縛され、牢死または処刑となった。
1859年安政6年南山一揆 天領から白河藩領になった信濃国南山郷では年貢の負担が増し、代官に合法的に訴願をしてもかえって処罰を受けるに留まった。そこで伊那郡今田村庄屋・小木曽猪兵衛が過去の一揆を研究し、『佐倉義民伝』を講釈しつつ農民を組織化し、南山郷36か村1800人ほどで蜂起した。この一揆は農民の犠牲者なく要求を実現した稀有な事例として知られる。
1860年万延元年桜田門外の変
落書事件 島尻与人(村役人)だった波平恵教が、琉球民は重税で困憊しているので薩摩に帰属させて欲しいという趣旨の直訴状を薩摩在番奉行所に届けようとして捕縛され、パイナガマで処刑された。
市川騒動(万延の強訴) 財政難の福知山藩では家老の原井惣左衛門、市川儀右衛門らが年貢増徴や専売制強化などの改革を性急に行ったため大規模な一揆が勃発、藩は農民の要求をほぼ認め、原井は責任をとって切腹、市川は追放となった。これに触発されて綾部藩領の丹波国大身村でも大身騒動が起き、園部藩領や亀山藩領にも拡大するが、頭取の大身村茂助が獄門に処せられている。
1862年文久2年生麦事件
1863年文久3年下関事件
1864年元治元年犬田布騒動 薩摩藩が支配する徳之島において、専売制が敷かれていた黒糖の密売の嫌疑で百姓の新山為盛が捕らえられ拷問を受けたことを契機に150人規模の一揆が発生、首謀者は遠島となった。
1866年慶応2年薩長同盟が結成
武州世直し一揆 横浜開港後のインフレによる米価高騰がきっかけで上武一帯の200か村・10万人が参加する大一揆が発生、米価引下げや質草返還を求めて名主や豪商の屋敷を打ちこわし、岩鼻陣屋も襲撃するが、幕府や藩兵・農兵らにより7日間で鎮圧される。後に頭取の名栗村百姓・島田紋次郎は死罪と決まるが執行前に獄死。
1867年慶応3年大政奉還
王政復古の大号令
1868年明治元年戊辰戦争
五箇条の御誓文
1869年明治2年版籍奉還
ばんどり騒動 金沢藩領の越中国新川郡では、凶作による年貢減免などを求めて2万人規模の百姓が蜂起し、大庄屋にあたる十村の屋敷を打ちこわしたが、藩の銃卒隊に鎮圧された。バンドリは百姓が着ていた蓑のこと。発頭人の新川郡塚越村の宮崎忠次郎は斬罪となった。
1871年明治4年廃藩置県
1873年明治6年徴兵令
地租改正

日本のお寺・神社 絶壁建築めぐり
飯沼義弥 (著), 渋谷申博 (監修)
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