義民のあしあと

中部地方

このページでは、中部地方の義民を短い説明文とともにまとめています。詳細はそれぞれのリンクをクリックしてください。年次別で百姓一揆などの出来事が知りたい場合は、[百姓一揆義民年表]のページが別にあります。



人名索引

飯野八兵衛 三河国挙母藩領飯野村(今の愛知県豊田市)の百姓。宝暦2年(1752)、挙母藩の圧政に対して多数の領民が江戸藩邸に押しかけ強訴した「飯野八兵衛騒動」の頭取として翌年に処刑される。林宗寺に墓碑が残るほか、各地に刑死した関係者の供養塔や供養行事が残る。


伊左久右 江戸前期の三河国渥美郡中山村(今の愛知県田原市)の庄屋を務めた川合伊左衛門と川合久右衛門を指す。不作と不漁による百姓の困難を救うため、西山の立木の払下げを求めて元和元年(1681)に領主に越訴するが、代官の讒言で翌年に斬罪になったという。畑の虫害は両人の無念によるものとして、地元で虫祭と称する大施餓鬼が行われる起源にもなった。


大竹与茂七 江戸中期の越後国蒲原郡中之島村(今の新潟県長岡市)の名主。大庄屋の不正を新発田藩に訴えるが、釘抜きで歯を抜かれるという拷問の末、大庄屋へ非義を申し掛けたとの罪状で獄門となる。享保4年(1719)の新発田城下の大火は怨霊による「与茂七火事」と噂され、諏訪神社末社の五十志霊神社に火伏せの神として祀られている。


岡村権左衛門 江戸後期の越後国三島郡浦村(今の新潟県長岡市)の組頭。浦村を含む川西組9か村が天領から長岡藩領へと所替えになったことに伴い年貢負担が増したことから、寛政3年(1791)、これらの村々で一味神水して傘連判状を作成し、年貢減免を代官所に訴えた。減免は認められたが、徒党強訴に及んだとして頭取の権左衛門は獄門となった。


小木曽猪兵衛 江戸末期の信濃国伊那郡今田村(今の長野県飯田市)の庄屋。天領から白河藩領になった信濃国南山郷では年貢の負担が増し、代官所に合法的に訴願をしてもかえって徒党を組んだとして処罰を受ける状況だったことから、過去の一揆を研究の上、『佐倉義民伝』を講釈しつつ農民を組織化し、南山郷36か村1800人が蜂起する「南山一揆」を指導した。この一揆は農民の犠牲者なく要求を実現した稀有な事例として知られる。


金子重右衛門 江戸中期の甲斐国八代郡金田村(今の山梨県笛吹市)の長百姓。寛政4年(1794)、甲斐国内の田安家領において、代官所が1升1斗入りの太枡を用いて年貢米1升を計量するなどの不正な増徴を行ったのに対抗し、田中代官所への強訴や江戸の寺社奉行への越訴、幕府老中への駕籠訴などの「太枡騒動」を起こした首謀者として捕らえられ、日川河原で獄門に架けられた。文久年間には「金重大明神」として祀る小祠が建てられた。


川合伊左衛門 → 伊左久右


川合久右衛門 → 伊左久右


川口市郎兵衛 駿河国富士郡青島村(現在の静岡県富士市)の名主で延宝9年(1681)の検地に反対して磔刑に処せられる。その後密かに青島八幡神社(磔八幡)に合祀されるが、将軍徳川家治の時代に赦免され奉幣を受けた。


北澤清兵衛 江戸中期の信濃国水内郡地京原村(今の長野県長野市)の百姓で元村役。浅間山噴火による不作の状況下、松代藩の山中地域の百姓が大挙して酒屋から強引に借金を取り付け、藩への年貢や拝借金返納に充てようとした「天明山中騒動」の責任者として永牢の処分を受けた。


憲盛法印 → 遍照坊智専


小林孫左衛門 江戸中期の信濃国佐久郡田野口藩領の割元(他藩でいう大庄屋)。宝暦4年(1754)の凶作の際に陣屋を囲んで年貢減免を強訴した農民をなだめ、藩から年貢減免の約束を取り付けるが、その後一揆の首謀者とみなされて打首・闕所になった。


佐賀野屋久右衛門 江戸中期の越中国射水郡放生津町(今の富山県射水市)の人。加賀藩領の特権商人である六軒問屋に反発して漁民400人が金沢城下に強訴したバンドリ一揆の際の東放生津惣代として、西放生津惣代の嵐四郎平(四歩市屋四郎兵衛)とともに享保3年(1718)に処刑された。六軒問屋廃止には成功し「漁民義人塚」に祀られる。


柴田助太夫 江戸前期の三河国碧海郡大浜茶屋村(今の愛知県安城市)庄屋。刈谷藩に対して助郷役免除の訴願を繰り返し、延宝5年(1677)に死罪となったが、大浜茶屋村では以後の助郷役が免除され、幕末に至るまで免除が続いた。


四歩市屋四郎兵衛 → 佐賀野屋久右衛門とあわせて記載


清水半平 江戸中期の信濃国小県郡夫神村(おかみむら、今の長野県小県郡青木村)百姓。宝暦11年(1761)に千曲川流域の1万3千人が年貢減免や役人の罷免などを求めて上田城下で強訴、打ちこわしに及んだ「上田藩宝暦騒動」の頭取として、夫神村組頭・中沢浅之丞とともに同13年(1763)に死罪となった。


下河内村辰蔵 → 松平辰蔵


下和田村治左衛門 → 森武七


高足村源吉 江戸後期の三州吉田藩の庄屋。田租免除の嘆願を行い死罪となるが赦されて程なく病没。郷土の義人として愛知県豊橋市の円通寺に頌徳碑が建つ。


竹本庄右衛門 → 平野源蔵とあわせて記載


多田加助 江戸前期の信濃国安曇郡中萱村(今の長野県安曇野市)の元庄屋。松本藩が不作の中で年貢率の引上げを行ったため、郡奉行に年貢減免を愁訴しようとしたところ、計画を聞きつけた農民1万人が松本城下に押しかけて打毀しを行った、貞享3年(1687)の「貞享騒動」の頭取として磔刑に処せられた。後に藩主の水野家が改易となったのは加助の怨霊の仕業と恐れられ、享保年間に加助を祀る小祠が建てられた。


栂野彦八 富山藩の四方町年寄。行商が禁止され疲弊した漁民を救うため郡奉行に嘆願するも、受け入れられなかったため屋敷内で切腹して果てる。これを契機に禁令が解かれたため、町民らは石像を造って都賀比古神社に祀り、現在は地元の四方神社に合祀されている。


中沢浅之丞清水半平とあわせて記載


中島助兵衛 江戸前期の美濃国武儀郡桐洞村(今の岐阜県下呂市)の人。万治3年(1660)、尾張藩領で代官が重税を課したため一揆が起きようとしたところ、農民を説諭して思いとどまらせ、単身江戸に出向いて尾張藩主・徳川光友に直訴した。代官は免職となり年貢も軽減されたが、助兵衛は獄死している。


二斗八様(にとはちさま)原助弥


野木久右衛門 駿河国駿東郡萩原村(今の静岡県御殿場市)の鋳掛屋。天明3年(1783)、天候不順による凶作を理由に小田原藩に年貢減免の強訴を起こした、いわゆる「御厨一揆」の首謀者として、翌4年に死罪となった。死後に他の関係者とともに「四相権現」として萩原神社に祀られた。


能美屋佐吉 江戸幕末の加賀藩金沢城下の髪結。安政5年(1858)、米価高騰に困窮する民衆2千人あまりが金沢城至近の卯辰山に登り、城に向かって「ひもじい」などと絶叫した「安政の泣き一揆」の首謀者の一人として、八幡町組合頭の原屋善兵衛らとともに処刑される。後に供養のため「七稲地蔵」が建てられた。


萩原村久右衛門 → 野木久右衛門


原助弥 信州水内郡高田村(現長野県長野市の一部)の人。江戸時代に松代藩の年貢増徴に反対して幕府に訴え出たために一揆の首謀者として鳥打峠で処刑される。信濃国松代藩領延宝二年一揆。玄米2斗8升を籾1俵に換算するよう要求したことから「二斗八騒動」とも。地元で「二斗八様」と呼ばれ供養塔や小祠が密かに建てられていたが、明治以降は大々的に義民として顕彰される。


平野源蔵 江戸前期の三河国宝飯郡広石村(今の愛知県豊川市)庄屋および組頭。他村との入会地をめぐる争いを幕府の牛久保代官所に直訴し打首となるが入会権は守られた。明治時代に共有山分割盟約が結ばれようやく問題は恒久的に解決した。


遍照坊智専 江戸中期の佐渡国雑太郡長谷村(今の新潟県佐渡市)の遍照坊住職。明和4年(1767)、佐渡ヶ島では不作にもかかわらず代官所が年貢の厳しい取立てを行ったため強訴が企てられるものの当局に発覚し、訴状を認めた遍照坊智専のみが死罪となった。翌年のウンカの大量発生は遍照坊智専の怨霊の仕業と噂され、佐渡各地に供養塔が建てられた。


宝暦義民 宝暦6年(1756)に加賀藩領宇出津組(今の石川県鳳珠郡能登町)の宝暦一揆に関連して牢死した犠牲者をいう。能登国では藩札発行によるインフレや天災による凶作が重なり、千人の百姓が加賀藩の十村役・源五宅を襲撃し、中斉村甚左衛門はじめ7人が責任を負って獄死している。藩の取調べの中で宝暦8年(1758)には宇出津組で年貢米の不足が発見され、寺分村勘十郎らが責任を負って入牢、獄死している。


本郷村善九郎 江戸中期の飛騨国吉城郡本郷村(今の岐阜県高山市)の人。飛騨代官・大原彦四郎による検地強化に反対し1万人が蜂起した安永2年(1773)の「大原一揆」(安永騒動)の頭取として獄門に処せられた。獄中から若き妻かよに宛てた遺書が岐阜県文化財に指定されている。一揆を鎮圧した大原彦四郎はかえって郡代に昇進した。


増田与兵衛 江戸初期の信濃国入奈良本村の百姓。庄屋の不正を上田藩主・仙石政明に直訴し、庄屋は処罰されたが増田与兵衛も連座の子2人とともに夫神川原で処刑された。宝暦年間に与兵衛明神として祀られた。


松木荘左衛門 江戸前期の若狭国遠敷郡新道村(今の福井県三方上中郡若狭町)の庄屋。小浜藩に対して百姓惣代として年貢引下げを繰り返し訴願し、切り崩し工作で他の庄屋が取り下げる中、拷問に屈することなく主張を曲げなかったため、藩が元の税率に戻すのと引き換えに、承応元年(1652)、日笠河原で磔に処せられた。


松木長操 → 松木荘左衛門


松平辰蔵 江戸時代後期の一揆指導者。天保7年(1836)、三河国加茂郡・額田郡で1万人以上が蜂起し米屋などの打毀しを行った加茂一揆の頭取となるが挙母藩・岡崎藩などにより鎮圧される。後に獄門を宣告されるが処刑前に牢死。国学者の渡辺政香が著した一揆の記録『鴨の騒立』では一揆の目的を世直しと述べている。


森治左衛門 → 森武七


森武七 甲斐国都留郡下和田村(今の山梨県大月市)百姓。本名は森治左衛門(次左衛門)。天保7年(1836)の郡内一揆の際、犬目の兵助とともに頭取となり、徒党を組んで米の買い占めをしている米穀商に押しかけ穀借りをしようとしたが、暴徒化したため途中で帰村、その後は甲斐一国に広がる打ちこわしや放火を招いた。代官所に自首するも同年に牢死している。


山本八兵衛 → 飯野八兵衛


和田佐助 江戸前期の越中国砺波郡和田村(今の富山県高岡市)の肝煎。もともと北陸街道沿いに新たに町立てされた場所だったが、重税で逃散が相次いだことから、隠田開発で農民の困窮を救おうとして藩に露見し、万治3年(1660)に磔刑に処されたという。地元では佐助大明神として祀る風習がある。


吉岡村市兵衛 江戸中期の越後国頸城郡吉岡村(今の新潟県上越市)の百姓。享保7年(1722)の流地禁止令を発端として、頸城郡内150か村で田畑を質入れした農民らが土地の取り戻しを図った「頸城騒動」の惣代として磔刑に処せられた。ただし、実際には執行前に拷問で牢死している。


日本のお寺・神社 絶壁建築めぐり
飯沼義弥 (著), 渋谷申博 (監修)
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