義民のあしあと

関東地方



このページでは、関東地方の義民を短い説明文とともにまとめています。詳細はそれぞれのリンクをクリックしてください。年次別で百姓一揆などの出来事が知りたい場合は、[百姓一揆義民年表]のページが別にあります。



人名索引

新井宿義民六人衆 武蔵国荏原郡新井宿村で、領主の旗本・木原義永の悪政を幕府に直訴しようとして果たせず、延宝5年(1677)に江戸の木原邸で斬首された犠牲者6名をいう。重税のため借金をする窮状を綴った「新井宿村名主惣百姓等訴状写」は東京都の指定有形文化財となっている。また、遺骸を密かに埋葬した墓は東京都大田区の善慶寺にある。


石川政七 → 板橋政右衛門とあわせて記載


磯部村清太夫 江戸中期の常陸国磯部村(今の茨城県桜川市)名主で磯部神社神主。寛延2年(1749)、山外郷27か村から千人の百姓が笠間城下で年貢減免の強訴を行った山外郷一揆の頭取として獄門となる。


板橋政右衛門 江戸幕末の横浜開港から続く米価騰貴を受けて、那須烏山の農民たちが明治2年(1869)に畑年貢の米納から金納(永納)への変更を烏山藩や新政府の弾正台などに訴願した際の代表者。訴願は実らず流刑となり後に釈放されるが、その顛末は宮原八幡宮境内に建つ「圃租法変更紀念碑」などから知られる。


市毛藤衛門 常陸国茨城郡上吉影村の庄屋。水戸藩宝永改革による年貢増徴や運河建設における賃金未払いなどに端を発した「水戸藩宝永一揆」の頭取として江戸藩邸に強訴し、改革の責任者だった松波勘十郎らを罷免に追い込んだ。


遠藤兵内 江戸中期の武蔵国児玉郡関村(今の埼玉県児玉郡美里町)の名主。関村兵内ともいう。幕府が中山道沿いの村々に増助郷を課したことへの反発から、明和元年(1764)から翌年にかけて発生した、武蔵・上野・信濃・下野の4か国20万人規模の大一揆「伝馬騒動」の首謀者として獄門に処された。


大多和四郎右衛門 江戸前期の上総国山辺郡東金町(今の千葉県東金市)の名主。干魃に際して佐倉藩の了承を得ずに米蔵を開いて百姓を救い、自らは責任をとって息子とともに道庭村の石切橋で自刃したといわれる。


大原幽学 江戸時代後期の農政学者。元は尾張藩の武士の出といわれ、18歳で勘当後に諸国を流浪し、人間の本性に従い道徳生活を実践する「性学」を唱える。下総国香取郡長部村(今の千葉県旭市)名主・遠藤伊兵衛に招かれ、同村に居住して世界初の農業協同組合「先祖株組合」の創設をはじめ、耕地整理や換子制度などの取組で農村の復興に当たる。教導所として大規模な「改心楼」を新築し、多数の農民を集めて講義や会合を行ったことから幕府の嫌疑を受けて100日間の謹慎処分を受け、再び村の荒廃を招いたことに絶望して切腹自殺した。


忍足左内 → 忍足佐内


忍足佐内 江戸時代の安房国平郡金尾谷村の名主。安房勝山藩主・酒井忠隣に対して年貢減免と御国奉行・稲葉重佐衛門及び代官・藤田嘉内の不正を直訴(門訴)しようとして、かえって捕らえられて白塚川原で処刑された。その後も妻や母が幕府老中への駕籠訴を行うなどして不正が発覚し、稲葉・藤田両名は酒井家を追放となり、忍足家も再興された。明治時代の自由民権運動のなかで再評価され、処刑地近くに「義民忍足佐内殉難の碑」も建てられた。


小沼庄左衛門 江戸前期の上野国山田郡台之郷村(今の群馬県太田市)の庄屋。延宝年間、館林藩の役人が年貢を不正に徴収したため、庄左衛門を含む18名が百姓惣代として江戸に赴き藩主に直訴し、訴えは認められたが、18名全員が磔刑に処せられた。


片岡万平 常陸国河内郡生板村(まないたむら、今の茨城県河内郡河内町)の百姓。代官の吉岡次郎右衛門が凶作時に重税を課したため、文化14年(1817)、天領8か村の百姓463人で江戸の代官屋敷に門訴を行う。片岡万平のほか、同村の石山市左衛門・成毛与五右衛門の3人で幕府勘定奉行にも越訴し、捕らえられて吟味中に獄死。文政6年(1823)に供養のための法華塔が地元の妙行寺境内に建てられており、「生板の三義人」として知られる。


上吉影村藤衛門 → 市毛藤衛門


木内惣五郎 → 佐倉宗吾


小池村勇七 文化元年(1804)に起きた牛久助郷一揆の頭取。水戸街道の牛久宿(現在の茨城県牛久市)のために周辺農村から人馬を徴発する助郷(すけごう)の拡大に反対し、55か村の農民6千人が女化原(おなばけはら)で集会し、牛久宿問屋の屋敷などを打ち壊した。土浦藩などの出兵で鎮圧され、小池村勇七は獄門、同村吉重郎および桂村兵右衛門が遠島と決まるが、既に全員が獄死した後となった。


最首杢右衛門 江戸時代中期の上総国夷隅郡深堀村(今の千葉県いすみ市)の組頭。旗本・阿部正甫(まさはる)の駿府在番に伴う御用金400両の賦課に対し、減免を求めて江戸屋敷に門訴したため斬首される。処刑後に領内の5か村が施主となり菩提寺の坂水寺に供養碑が建てられ、いすみ市指定文化財となっている。他にも最首家墓地から「而為百世神」などと刻み杢右衛門を讃える墓碑が出土した。


佐倉宗吾 江戸前期の下総国公津村の庄屋。本名は木内惣五郎といい、重税に苦しむ百姓に代わり、承応元年(1652)に佐倉藩の悪政を将軍に直訴して妻子ともども処刑されたと伝わる。後に藩主・堀田正信が改易されたのは惣五郎の祟りとされ、堀田家でも口の明神に惣五郎を祀った。後に『佐倉義民伝』として歌舞伎や講談・浪曲などの文芸のモチーフとして大衆に広まった。


椎名源治 下総国香取郡牧野村の人。寛文2年(1662)の凶作にあたり地頭黒川左馬の苛政を公儀に訴え、逆に村内引き回しの上生き埋めにされたという。その後村で疫病流行の折、源治処刑の際に哀れんで酒を与えた家だけが無事だったことから、山神源治宮として祀り霊を鎮めた。


市東刑部左衛門 江戸前期の上総国山辺郡東金町(今の千葉県東金市)の名主。検田使として訪れた幕府役人に年貢軽減と救米を求めたが横柄な振舞いをされたため、役人を斬り殺して米蔵を勝手に開放し、農民に施米した上で切腹して果てたという。


島田紋次郎 江戸幕末の頃の武蔵国秩父郡上名栗村(今の埼玉県飯能市)の大工。横浜開港後のインフレによる米価高騰などに端を発した慶応2年(1866)の「武州世直し一揆」の頭取となる。上武一帯の200か村・10万人が参加した大一揆に発展し、幕府や藩兵・農兵らにより7日間で鎮圧される。後に召し捕られて死罪と決まるが、処刑前の同年中に獄死している。


下佐谷村助六 → 福田助六


下佐谷村与惣左衛門 → 福田助六


下田隼人 江戸時代前期の相模国足柄上郡関本村(今の神奈川県南足柄市)名主。小田原藩による麦租の賦課に反対する一揆を宥めて藩主・稲葉正則に直訴し、麦租は撤回されるものの、自身は万治3年(1660)に小田原城下で死罪、跡式欠所となった。大正時代には菩提寺の龍福寺に「下田隼人翁碑」が建てられ顕彰を受けている。ほかに大稲荷神社境内社の錦織神社にも祭神として合祀されている。


白田六右衛門 上野国多胡郡の庄屋。飢饉に際して無断で穀倉を開き農民に年貢米を分け与えたため死罪となる。義民として地元の龍源寺に顕彰碑が建つ。


杉木茂左衛門 江戸前期の上野国利根郡月夜野村(今の群馬県利根郡みなかみ町)の名主。沼田藩主・真田信利の圧政を将軍に直訴し、真田家は改易、再検地で年貢が軽減されるが、茂左衛門自身も磔となり、「磔茂左衛門」として知られるようになった。


鈴木源之丞 下野国河内郡御田長島村(今の栃木県宇都宮市)の庄屋。明和元年(1764)、宇都宮藩の百姓一揆「籾摺騒動」の頭取として上平出村の水沼亀右衛門、今泉新田の増淵六平とともに市中引回しの上打首となる。年号は宝暦3年(1753)とも。処刑後に六角柱型の供養塔が建てられたほか、「喜国大明神」として高尾神社内に祀られる。


関村兵内 → 遠藤兵内


平藤治 江戸後期の武蔵国多摩郡高幡村(今の東京都日野市)の人。重税に困窮する農民を見て年貢減免を名主に掛け合うものの密告で捕らえられ、伝馬町牢屋敷に投獄される。本来は釈放されるところを差入れの毒まんじゅうを食べて亡くなり、その後村で不吉なことが起こったため藤尾社に祀ったという。


大神宮義民七人様 旗本の河野三左衛門支配の下で年貢増徴や山林独占が行われたため、天和2年(1682)に老中に越訴、河野家の工作で敗訴して処刑された7名をいう。過去帳などから実在が判明しているが、江戸時代の文化年間に造立された供養塔が大正時代に発見され、館山市指定史跡とされている。


照山修理 常陸国多賀郡金沢村(今の茨城県日立市)の庄屋。水戸藩の寛永検地に反対して強訴を行い、寛永18年(1641)に弟、次男とともに磔刑に処せられる。この一件を受けて藩は検地の際に意図的に縄延びさせて百姓の負担を軽くしたという。村人たちが報恩感謝の意を込めて年3回行う念仏供養は「修理念仏」と呼ばれる。


原嶋源右衛門 江戸中期の武蔵国多摩郡成瀬村(今の東京都町田市南成瀬ほか)の名主。村境の東光寺集落の新田開発に功があったが、隣接する都筑郡長津田村との間の境界争いに絡んで、享保元年(1716)ごろに一家もろとも処刑されたと伝わる。


腹切り佐七 常陸国那珂郡三反田村(今の茨城県ひたちなか市)の庄屋。享保の飢饉に際して水戸藩に無断で郷蔵を開いて穀物を農民に分け与え、その責を負って妻子を手に掛けた上で切腹したという伝説をもつ。切腹した場所に建てられた墓が明治以降に参詣者が増えて霊堂が営まれ、現在は左七山福道寺という日蓮宗寺院になっている。


磔茂左衛門 → 杉木茂左衛門


久末義民 元禄6年(1693)の門訴事件で殺害された武蔵国久末村(今の神奈川県川崎市高津区)の百姓を指す。当時の久末村は旗本の佐橋内蔵之助が支配していたところ、過酷な年貢取立てに困窮した百姓が何度か江戸に上り門訴に及ぶものの行方知れずとなり、最後に逃げ帰った1人により全員殺害されていたことが判明する。村人は犠牲者を供養するため地蔵尊や宝篋印塔を建立した。


平沢佐七 → 腹切り佐七


深堀村杢右衛門 → 最首杢右衛門


福田助六 江戸中期の常陸国新治郡下佐谷村(今の茨城県かすみがうら市)の人で、名主とも百姓代ともいわれる。旗本・本堂家による過酷な年貢や助郷役の負担に耐えかねた志筑領内25か村の百姓が集まり、安永7年に江戸屋敷に強訴した助六一揆を主導して獄門に処された。


布施村弥五郎 下総国相馬郡布施村(今の千葉県柏市)の百姓。布施村が上州沼田藩本多家の飛地だった元禄16年(1703)、飢饉に苦しみ年貢の減免を求めて藩公に直訴しようとして在所で処刑されたという。処刑地は布施弁天の下の河原に位置し「弥五塚」と呼ばれ、祟り地として恐れられた。


細野冉兵衛 常陸国新治郡深谷村(今の茨城県かすみがうら市)の人で土浦藩東郷名主惣代。土浦藩領の天童一揆を鎮撫し名声があったが、天保5年(1834)の志戸崎騒動で農民の味方をし、出役(代官)に背いたとして永牢となり、翌年牢死している。


堀越三右衛門 旗本の倉橋内匠助久盛が凶作にもかかわらず領地で年貢増徴を行ったことから、窮状を幕府に直訴しようとした上野国の名主。堀越三右衛門は緑埜村の名主で、寛文7年(1667)に訴状を提出するも、在地で処刑された。三木市右衛門は黒熊村名主で、寛文8年(1668)に直訴を企てて未遂となり、8年入牢後に国払いとなった。再度の直訴により倉橋家は改易された。


堀江六之丞 江戸時代の下野国足利郡板倉村(今の栃木県足利市)の人。不作による年貢減免を求めて河内丹南藩の陣屋に強訴しようとした百姓を説得するものの、藩からは一揆の頭取と見なされ妻よねとともに処刑される。後に義民として六之丞八幡宮に祀られる。


万石騒動の三義民 正徳元年(1711)、安房北条藩で年貢減免を求めて藩邸に門訴し処刑された名主3名を指す。安房北条藩は1万石の小藩で、家老に川井藤左衛門を登用して年貢増徴を行うが、百姓の反発を招いて江戸藩邸での門訴や幕府老中への駕籠訴に発展した。最終的に幕府評定所の詮議を経て、川井は死罪、藩主の屋代家は改易となった。


三木市右衛門 → 堀越三右衛門とあわせて記載


諸岡太左衛門 江戸中期の上総国天羽郡金谷村(今の千葉県富津市)の農民。当時は旗本の白須政雍の知行地だったところ、天明の飢饉の最中に鉈止めと称する入会山利用の禁止と増税が命じられたため、他の農民たちと大挙して江戸の白須邸で門訴を行う。結果として布告は撤回されて旧に復したものの、入牢中の天明6年(1786)に獄死。菩提寺の華蔵院に墓が営まれ、富津市史跡として指定される。


吉田杢右衛門 → 最首杢右衛門


日本のお寺・神社 絶壁建築めぐり
飯沼義弥 (著), 渋谷申博 (監修)
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