義民のあしあと

近畿地方



このページでは、近畿地方の義民を短い説明文とともにまとめています。詳細はそれぞれのリンクをクリックしてください。年次別で百姓一揆などの出来事が知りたい場合は、[百姓一揆義民年表]のページが別にあります。



人名索引

大西与三右衛門 → 岡村源兵衛にあわせて記載


大身村茂助 丹波国天田郡大身村(今の京都府福知山市)の百姓。万延元年(1860)に起きた大身騒動の首謀者として捕らえられ斬首獄門に処せられ、その首は細野峠に晒された。細野峠には「大身騒動晒場跡」の標柱がある。


岡村源兵衛 三木町義民として知られる。三木合戦後に豊臣秀吉から地子免除の制札を得た播磨国三木町は、江戸時代にも無税の特権が承継されていたが、延宝検地で否定されそうになったため、延宝6年(1678)に平田町大庄屋の岡村源兵衛、平山町年寄の大西与三右衛門の両名で江戸に赴き幕府に直訴した。制札の現物が証拠となり両名は死罪を免れ、特権は維持された。


小林勘次 江戸初期の伏見の薪炭商で、淀川の船銭(通行料)の値上げで難儀する民衆に代わり、江戸に上って幕府に訴えて朱印状を勝ち取ったとされる。明治時代に伏見の薪炭商共進組合が伏見義民として顕彰し、石碑を建立した。


白井半左衛門 丹波国多紀郡福住村(今の兵庫県丹波篠山市)の庄屋。灌漑用水・防火用水として溝を掘ったが、無断で工事を行ったとして大庄屋・荻田三太夫から篠山藩に訴えられ、享保16年(1731)に死罪闕所に処せられる。寛延元年(1748)の福住大火では白馬に乗った半左衛門を見た者が現れたため、禅昌寺に供養塔が建立された。


土川平兵衛 江戸後期の近江国三上村庄屋。天保13年(1842)、幕府が天領からの年貢増徴を企図して勘定方・市野茂三郎を検地のため派遣した際、野洲・甲賀・栗太3郡4万人による惣百姓一揆「三上騒動」の発頭人となり、検地役人から10万日繰延べの証文を勝ち取る。その後捕らえられて牢死。


富川村源吾 → 富川村彦治にあわせて記載


富川村彦治 江戸初期の近江国栗太郡冨川村(今の滋賀県大津市)庄屋。弟に彦治。膳所藩では浜代官を置いて山越えをする人馬に重税を掛けていたため、幕府巡見使に直訴して重税を廃止させたが、兄弟は佐馬野峠で磔刑に処せられた。


戸谷新右衛門 江戸中期の紀伊国伊都郡島野村の庄屋。年貢徴収の不正を高野山の役僧に訴えるも聞き届けられず、享保5年(1720)、江戸で寺社奉行に駕籠訴して要求を実現したが、帰村後に捕らえられて高野山奥の院で石子詰めの極刑を受けたという。しかし、島野村はそもそも実在せず、創作ともいわれる。


滑甚兵衛 姫路藩古知ノ庄村滑(なめら)の百姓。塩田利兵衛、又坂与次右衛門らとともに、1万人が蜂起した姫路藩寛延一揆を主導したとして寛延3年(1750)磔により処刑される。死後に供養のため浄土三部妙典塚が建てられ、現在は地元の義民として置塩神社に祀られている。


鳴尾の義民 天正19年(1591)の天正北郷樋事件により刑死した犠牲者をいう。連年の干魃の中で武庫川水系からの取水をめぐり上流の播磨国瓦林村と下流の鳴尾村との間で水争いの乱闘が発生、秀吉の喧嘩停止令に違反したとして最終的に鳴尾村25名、瓦林村26名が大坂で磔刑に処せられたが、鳴尾村の水利権は認められた。


平井村太兵衛 大和国宇陀郡平井村(今の奈良県宇陀市)の庄屋。寛文8年(1668)、五津村庄屋甚七郎とともに、江戸在府中の宇陀松山藩主・織田長頼に対して、百姓の連判状を提出して租税軽減の越訴を行う。しかし「殿中で恥辱をあたえた」として太兵衛・甚七郎と子息3人は死罪となった。


伏見義民 天明5年(1785)、伏見奉行・小堀政方の悪政を幕府に直訴して牢死した伏見の町人・文殊久助ら7人を指す。小堀政方は藩財政の補填と自らの浪費のため伏見町民に多額の御用金を賦課して本件伏見騒動を招き、後に改易された。


宮村才蔵 徳島藩支配下の淡路島では縄の供出や木綿の専売制強化などにより農村が疲弊し、多数の農民が庄屋宅に押しかけて廃止を迫った。徳島から役人が出張して取調にあたり、新法は廃止されたが、徒党強訴の頭取として淡路国三原郡広田宮村才蔵、山添村清左衛門の両名が斬首獄門となった。


山添村清左衛門 → 宮村才蔵にあわせて記載


吉田新兵衛 丹後国与謝郡石川村(今の京都府与謝郡与謝町)の百姓。文政5年(1822)に起きた宮津藩文政一揆の首謀者として捕らえられ死罪に処せられたが、後に義民として顕彰される。京都府京丹後市の路傍にある巨大な地蔵像「平地地蔵」はその供養のために建立されたといわれる。


日本のお寺・神社 絶壁建築めぐり
飯沼義弥 (著), 渋谷申博 (監修)
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