義民のあしあと

九州地方



このページでは、九州地方の義民を短い説明文とともにまとめています。詳細はそれぞれのリンクをクリックしてください。年次別で百姓一揆などの出来事が知りたい場合は、[百姓一揆義民年表]のページが別にあります。



人名索引

穴井六郎右衛門 江戸中期の豊後国日田郡馬原村(今の大分県日田市)の庄屋。天領の豊後国日田郡・玖珠郡では代官が定免制や助合穀制を導入し百姓の困窮が深まったため、江戸に出て年貢減免と夫食米借用を求め越訴に及んだ。訴状は受理されるものの、一旦帰国したところを捕縛されて死罪獄門に処せられた。


岩本源三 壱岐国可須村百姓。地割などに関する平戸藩役人の不正を将軍徳川家斉に直訴し捕縛され、文政3年に壱岐の百間馬場で処刑されたと伝わる。明治時代に百姓源三神社が建つ。


義民六人士 筑前国津屋崎の庄屋佐兵衛はじめ組頭ら六人衆のこと。津屋崎と勝浦の漁場争いで黒田藩に直訴し漁場拡大に成功するも、寛永17年(1640)に全員が処刑される。教安寺に首塚が残るほか、義民として六之神社などに祀られる。


冨田才治 江戸中期の肥前国松浦郡平原村(今の佐賀県唐津市)の大庄屋。唐津藩主・水野忠任の年貢増徴政策を旧慣無視として反発した農民・漁民2万5千人あまりが蜂起して藩領と天領との境界にあたる虹の松原(当時の呼称は二里松原)に集結した明和8年(1771)の「虹の松原一揆」を主導した。的確な指揮で無血一揆による要求実現が図られたが、その後の藩の処罰は厳しく、自首した冨田才治含め4名が斬首の上晒し首となった。


永田隆三郎 江戸時代後期の肥後国天草郡古江村(今の熊本県天草市)の10代目庄屋。耕作地を質入れした困窮百姓を救済するための徳政令にあたる百姓相続方仕法の内容や、その公布を求めて幕府に直訴した御領組大庄屋・長岡興就の投獄などへの不満から、領内1万5千人が決起した弘化4年(1847)の「弘化の大一揆」の頭取となり、嘉永2年(1849)に処刑される。現地には永田隆三郎が建立した、一揆の思想を示唆する「法界平等碑」が残り、天草市指定文化財となっている。


新山為盛 徳之島犬田布村の農民。薩摩藩支配下の元治元年(1864)、専売制だった砂糖の隠匿を疑われて役人から拷問を受け、これを発端に犬田布村の農民150名余りによる一揆「犬田布騒動」へと発展した。一揆の首謀者は遠島や労役の刑罰に服した。


藤江監物 日向国延岡藩牧野家の家老。郡奉行の江尻喜多右衛門とともに領内の出北地方(現宮崎県延岡市)の灌漑事業を進めるものの、軍用金を流用したと讒言されて失脚、享保16年(1731)に父子4人で入牢し獄死した。岩熊井堰や出北用水路の工事は江尻喜多右衛門が引き継いで享保19年(1734)に竣工し、美田地帯が生まれたことから、死後は農民らにより出北観音堂に祀られ、終焉の地の舟の尾(宮崎県西臼杵郡日之影町)ほか複数の場所に墓が建っている。


杢右衛門 江戸時代の豊後国海部郡因尾村組上津川(今の大分県佐伯市)の百姓。文化9年(1812)に佐伯藩領の因尾村はじめ7か村の百姓が蜂起して大庄屋宅などを打ちこわし、年貢軽減など「願望拾ヶ条」を掲げて強訴に及んだ「文化一揆」の頭取として同年に処刑される。死後に上津川地内に供養塔が建てられた。


山陰一揆義民 日向国延岡藩では、臼杵郡代・梶田十郎左衛門の圧政に耐えかねた山陰村民1422人が隣の高鍋藩に逃散した。最終的に藩主・有馬清純は糸魚川に転封されて天領となり、郡代も追放されたが、幕府評定所の裁定で百姓越度として頭取・善助および市兵衛が磔になるなど多数が処罰され、今日に郷土の義民として伝わる。また一揆犠牲者のため朝参供養を行う風習が生まれた。


日本のお寺・神社 絶壁建築めぐり
飯沼義弥 (著), 渋谷申博 (監修)
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