義民のあしあと

四国地方



このページでは、四国地方の義民を短い説明文とともにまとめています。詳細はそれぞれのリンクをクリックしてください。年次別で百姓一揆などの出来事が知りたい場合は、[百姓一揆義民年表]のページが別にあります。



人名索引

今村久兵衛 江戸時代前期の伊予国久米郡片平村(今の愛媛県松山市)里正。寛永7年(1630)の干魃の際、検見により年貢減免を藩庁に求めるが却下される。自暴自棄になった村人が田に火を掛けて不作の稲を焼き払い、多数が藩に捕縛されたため、全責任を負って磔刑に処せられる。享保13年(1728)、百年祭や墓碑の建立があり、あわせて長徳寺境内の若宮神社に祀られる。現在も松山市道に「きゅうべえ通り」がある。


大西権兵衛 讃岐国三野郡笠岡村(現香川県三豊市)の人。丸亀藩領三野郡、那珂郡および多度津藩領多度郡、三豊郡の4郡の農民が蜂起した寛延3年(1750)の「西讃農民一揆」の頭取として丸亀藩に年貢減免を求め、強訴の罪で磔刑に処せられる。他の処刑者とともに「七人童子」と崇められ、地元に「七義士神社」が建つほか、「権兵衛芝居」も上演されている。


小村(おもれ)田之助 江戸初期の讃岐国山田郡小村(おもれ、今の香川県高松市)の庄屋。寛永20年(1643)、干魃による凶作を理由に年貢分納を高松藩に嘆願するが、不遜として翌年に斬罪に処せられる。ただし、分納は認められ、義民として慶応年間に住居跡に墓碑が建てられた。


工藤治兵衛 江戸時代初期の伊予国新居郡中奥山(今の愛媛県西条市)庄屋で、銀納義民として顕彰される。新居郡は山がちの地形のため年貢を買米で納付せざるを得ず、米価高騰に耐えられなくなったことから、寛文4年(1664)に庄屋の工藤治兵衛が頭取となって年貢銀納を求めて藩庁に強訴し、治兵衛はじめ16名が処刑される。後に西条藩一柳家は改易となり、他の庄屋の嘆願活動で銀納も認められた。


蔵川村吉右衛門 大洲藩領喜多郡蔵川村(今の愛媛県大洲市)の平百姓。明和7年(1770)に蔵川村百姓160人が宇和島藩領に逃散した蔵川騒動の頭取として自首したため、同年斬首の上で荒間地峠に梟首された。村では菩提を弔うため命日に一升念仏を行うという。


蔵川村新之丞 → 蔵川村吉右衛門とあわせて記載


重清村秀 阿波国美馬郡重清村(今の徳島県美馬市)組頭の妻。組頭庄屋(大庄屋にあたる)の不正があったため、宝暦8年(1758)、夫に代わり頭取となって徳島藩家老に直訴、組頭庄屋は追放されるが、秀は鮎喰河原で打首となり、夫も後を追って自害したという。


高橋安之丞 土佐国吾川郡上八川村の里正。新田開発や楮・茶の栽培を広め貞享の飢饉に際して年貢減免を土佐藩に嘆願するが逆に讒訴にあい処刑される。死後に若宮神社に祀られる。


田頭庄右衛門 江戸時代中期の伊予国越智郡下弓削村(今の愛媛県越智郡上島町)の組頭。宝永5年(1708)、災害を理由に数度にわたり他の百姓らとともに年貢減免を庄屋に願い出るも今治藩の郡奉行らに捕らえられ、斬首獄門に処せられた。後に定光寺に墓が建立され、盆踊りの「庄右衛門踊り」なども生まれた。


武左衛門 江戸時代後期の伊予国宇和郡上大野村(今の愛媛県北宇和郡鬼北町)の百姓。寛政5年(1793)、宇和島藩の支藩である伊予吉田藩の紙専売制などに反対して「吉田騒動」、別名「武左衛門一揆」を引き起こす。吉田藩家老の安藤継明が一揆勢の面前で責任を取り切腹、要求は宇和島藩の介入もありほぼ認められたが、寛政7年(1795)に一揆の頭取として斬首の上獄門となった。埋葬地に「武左衛門大いちょう」が残るほか、一方の安藤継明も廟所や安藤神社に祀られた。


村上平兵衛 伊予国新居郡郷村(現在の愛媛県新居浜市)の人。宝暦3年(1753)、伊予国西条藩の年貢増徴に反対した西条騒動において、宇高村の高橋孫兵衛、沢津村の高橋弥市左衛門とともに一揆の頭取となり翌年処刑される。死後に墓碑や小祠が造られ、新居浜の「三義民」として顕彰される。


山口吉右衛門 江戸中期の阿波国名西郡高原村(今の徳島県石井町)の先規奉公人。先規奉公人は代々武家に仕えた者で本百姓よりも身分は高かった。徳島藩による藍の専売制強化に反対し、吉野川流域の名東・名西・板野・麻植4郡の藍作農家による徳島城下への強訴を計画し、未遂のまま捕縛され磔刑に処された。天明年間に他の一揆頭取とともに五社明神として祀られ、藍玉の神と慕われた。


日本のお寺・神社 絶壁建築めぐり
飯沼義弥 (著), 渋谷申博 (監修)
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