義民のあしあと

東北地方



このページでは、東北地方の義民を短い説明文とともにまとめています。詳細はそれぞれのリンクをクリックしてください。年次別で百姓一揆などの出来事が知りたい場合は、[百姓一揆義民年表]のページが別にあります。



人名索引

切牛弥五兵衛佐々木弥五兵衛


昆野八郎右衛門 陸奥国磐井郡釘子村の肝煎。重税で疲弊する農民を救うため仙台藩主に直訴を行うが捕らえられて刑死。その後釘子村では年貢が軽減され穀納から金納に変わったといい、明治時代に義民として顕彰するため昆野八郎右エ門神社が建てられた。


佐々木弥五兵衛 陸奥国閉伊郡下岩泉村切牛(今の岩手県下閉伊郡田野畑村)の百姓。牛方として塩荷駄を積み行商するのにあわせ、領内各村を巡って一揆への参加を説き、弘化4年(1847)の「弘化三閉伊一揆」の頭取として活躍した。この一揆では1万2千人で遠野南部家に強訴し、盛岡藩に税の免除などの要求を認めさせたが、翌年には捕縛されて盛岡で牢死、または斬殺されたという。


笹子仁左衛門佐藤仁左衛門


佐藤太郎右衛門 陸奥国信夫郡佐原村の百姓で、享保14年(1729)に起きた信夫・伊達郡の一揆の頭取となる。当時は幕府代官により定免法採用と年貢増徴が行われ百姓が困窮していたことから、信達地方の百姓が代官所に年貢減免を娶る強訴を行い、あわせて佐藤太郎右衛門が江戸に上り目安箱に訴状を投函した。太郎右衛門は江戸潜伏中に捕縛され、佐原荒田口で処刑された。


佐藤仁左衛門 江戸前期の出羽国矢島郷下笹子(しもじねこ)村の名主。生駒氏の領地であった矢島郷の検地で石高の水増しが行われ、百姓の逃散が相次いだことから、,江戸に上り領主に直訴し朱印状を得る。しかし、城代家老らの策謀で他の同士は処刑され、仁左衛門も裏切りにより殺害されたという。


佐藤甚助 江戸時代前期の出羽国雄勝郡上到米村(今の秋田県雄勝郡羽後町)の長百姓。冷害による年貢未進が続く村の窮状を救うため、肝煎・遠山治兵衛とともに久保田藩主・佐竹義隆に駕籠訴をする。藩が検視したところ夏の土用に降雹があり、直訴が真実と認められて釈放され、年貢も軽減されたと伝わる。近代に入り甚助神社に祀られた。


佐原太郎右衛門佐藤太郎右衛門


島津利右衛門高梨利右衛門(偽名を使ったため)


白岩義民 寛永10年(1633)、出羽国村山郡白岩郷(今の山形県寒河江市)の百姓が旗本・酒井忠重の苛政に耐えかね、非法23か条を「白岩目安」にまとめ幕府に直訴し、忠重は改易された。しかし、代官支配に変わった後も不満が続き、寛永15年(1638)に再び一揆が起きるが、山形藩主・保科正之の計略で百姓36人が騙されて捕らえられ、幕府の裁定を待たず、保科正之の独断で山形城下の広河原において全員が磔刑に処せられた。この一連の白岩一揆で犠牲となった人々を白岩義民と称する。


高梨利右衛門 江戸前期の出羽国置賜郡屋代郷二井宿村(今の山形県高畠町)の肝煎。末期養子の代償に石高を半減された米沢藩上杉家は、預地の屋代郷から激しく収奪を行ったため、寛文6年(1666)高梨利右衛門が藩政批判と幕府直轄地編入を求める「信夫目安」(寛文目安)を幕府に提出する。ために越訴の罪で磔刑に処せられたが、文政年間に徳を讃える「大酬恩碑」が建てられた。


南山義民 享保5年(1720)以降の南山一揆の犠牲者をいう。南山御蔵入領と呼ばれた幕府直轄の南会津地方は、生産性の低い山がちの地形のため、年貢やその輸送の負担が大きかった。このため年貢減免や石代納を求めて百姓が田島代官所に強訴したが、権限がないと取り合わなかったので代表が江戸に上り直訴した。南会津一帯は会津藩の預地となり実質的に要求は実ったが、小栗山村喜四郎らが晒首となり、のち南山義民として顕彰された。


畑中喜右衛門 江戸前期の出羽国前郷村名主。子吉川の氾濫に対し代官に河川改修を訴願するも、かえって百姓を煽動して強訴に及んだとして処刑される。死に臨み魂はこの地にとどまり河道を変えると遺言し、供養碑が建てられた。


藤田民次郎 江戸後期の陸奥国津軽郡鬼沢村の百姓。文化10年(1813)、弘前藩では蝦夷地警備や冷害によって百姓の年貢の負担が高まる中、2千人が弘前城下に押しかけ強訴する一揆が発生、藩は蔵米放出や年貢減免などで対応するが、民次郎はこの一揆の首謀者として名乗り出て斬首され、後に義民として崇められた。


坊沢の五義民 出羽国秋田郡坊沢村(秋田県北秋田市)で村入用をめぐって肝煎と対立し、久保田藩に直訴したため在地で斬首となった5人の農民をいう。当時、戦国時代に比内浅利家の家臣だった長崎家が引き続き肝煎を担っており、新田開発などに功績があったものの、その費用が農民に割り当てられたのが騒動の理由となった。


吉田長次兵衛 江戸時代中期の陸奥国磐城郡柴原村(今の福島県いわき市)の名主。磐城平藩内藤家の年貢増徴に反対して数万人が蜂起した元文一揆の頭取となり、翌年に中神谷村の佐藤武左衛門ら8名とともに死罪となる。処刑場である夏井川の鎌田河原に河原子地蔵堂が、対岸の五霊神社に元文義民之碑が建つ。


日本のお寺・神社 絶壁建築めぐり
飯沼義弥 (著), 渋谷申博 (監修)
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