馬場都都古別神社

馬場都々古別神社 神社

馬場都都古別(つつこわけ)神社は、福島県東白川郡棚倉町にある神社です。味耜高彦根命・日本武尊を祀り、陸奥国一の宮、延喜式内社とされています。馬場・八槻の2つの都都古別神社と茨城県大子町の近津神社をあわせて「近津三社」と称されることもあります。この神社はかつて棚倉城の場所にありましたが、丹羽長重が棚倉城を築城するにあたって遷座されたと伝えられ、本殿建築は国の重要文化財です。

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旅行先の地図

旅行先の概要

御祭神 (主祭神)味耜高彦根命 (配祀神)日本武尊
所在地 福島県東白川郡棚倉町棚倉字馬場39
交通 JR水郡線「磐城棚倉駅」から徒歩約15分
東北自動車道「白河IC」から車で約40分
拝観料 無料
駐車場 なし
URL
連絡先 都都古和氣神社 0247-33-7219

歴史・由来

馬場都々古別(つつこわけ)神社(「都都古和氣神社」)は、福島県東白川郡棚倉町の馬場地区にある神社です。主祭神として味耜高彦根命を、相殿神に日本武尊を祀っており、陸奥国一の宮、延喜式内社の論社とされています。同じ棚倉町の八槻地区にも同名の都々古別神社があり、こちらを式内社と見る考えもあります。また、江戸時代には馬場・八槻の2つの都々古別神社と茨城県大子町の近津神社をあわせて「近津三社」と呼ぶことがありました。

この神社は、景行天皇の時代、日本武尊の東征にあたり、建鉾山(福島県白河市表郷三森)に鉾を立て、地主神として味耜高彦根命を祀ったのがはじまりとされています。建鉾山の頂上には今も「建鉾石」が残るほか、中腹からは鏡や勾玉などをかたどった古墳時代の滑石製模造品が出土しました。

その後の大同2年(807)、坂上田村麻呂が戦勝祈願の報賽として、伊野荘の地(現在の棚倉城跡)に社殿を造営して遷座します。中世には修験道が盛んで、京都聖護院末の不動院尊護寺が別当寺となり、八槻別当大善院とともに一帯の山伏らを率いていました。

近世、陸奥棚倉5万石の領主となった丹羽長重が棚倉城を築城するにあたり、寛永2年(1625)に「近津大明神」とも呼ばれていたこの神社を現在地に遷座していますが、このとき懐柔策として馬場別当家から高松良篤を還俗させて家老に登用しました。また、遷座に際しては旧地から建物を解体移築しているため、本殿は遷座前の文禄年間(1592~1595)に佐竹義宣が造営したものが残っており、国の重要文化財に指定されています。

明治維新によって廃仏毀釈が進むと、明治6年(1873)に「国幣中社」に列していますが、馬場と八槻のどちらが旧式内社であったのかについては結論が出ず、八槻都都古別神社も同様に「国幣中社」となっています。一時はもと会津藩家老の西郷頼母が馬場都都古別神社の宮司を務めましたが、西南戦争の際に西郷隆盛との関係を疑われて解任された経緯もあります。

境内は鬱蒼とした樹林で覆われており、社殿後方に「馬場古墳」と呼ばれる古墳があるほか、建武5年(1338)に建てられた供養塔(板碑)なども残されています。

車椅子で旅行するポイント

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【1】馬場都々古別神社の正面参道は石段につき境内裏手に迂回を要する。なお、ここから500メートル東に棚倉町役場・保健福祉センターがある。

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【2】棚倉自動車学校から続く市道沿いに「都々古別神社裏参道」の標柱があるので、ここから未舗装の裏参道を自動車で進む。

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【3】裏参道の奥には車止めがあり、その手前が自動車の転回可能な若干広いスペースとなっている。

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【4】馬場都々古別神社の拝殿付近。鳥居から垣内に入れる。足元は参道部分が石畳、他は地面が露出している。



馬場都々古別神社境内図

境内配置図 [凡例]
本殿 拝殿 神饌所 甲山天満宮 稲荷神社 厳島神社 鹿島神社 神明宮 磐座 熊野神社 日枝神社 東照宮 建武の板碑 寅卯神社 随身門 手洗 社務所 裏参道標柱 車止め 宮司宅 馬場警察アパート 国道118号 棚倉自動車学校 棚倉町役場・保健福祉センター

移動のしやすさ ★★☆☆☆
バリアフリーの状況
馬場都都古和氣神社の正面参道は高い石段となっているため、遠回りだが国道118号棚倉自動車学校の交差点から延びる市道を進み、「都々古別神社裏参道」の標柱がある裏参道から進入する。車止めがある付近は転回可能な若干広いスペースとなっており、ここまでが自動車で進入できる限界となる。境内は参道部分は石畳で、その他は地面が露出している。なお、境内正面入口から500メートル東に棚倉町役場・保健福祉センターがあり、身障者用トイレを併設する。

周辺の名所・観光スポット

棚倉城跡・時の鐘

陸奥棚倉5万石を領した丹羽長重が、ここに鎮座していた近津大明神(現在の都都古和氣神社)を馬場に遷座した上で築城をはじめた平城で、寛永4年(1627)に完成したものの、丹羽長重自身は完成前に陸奥白河10万石に転封となり、城主は内藤信照に交代している。
その後何度も城主が交代し、最後の城主は阿部正静となったが、戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟に加盟したため、慶応4年(1868)に板垣退助率いる官軍「迅衝隊」の手によって落城した。
現在は本丸と水掘が「亀ヶ城公園」として整備され、春の桜の名所にもなっている。
入口付近の町道沿いには、棚倉町の友好都市・埼玉県川越市の「時の鐘」を模したモニュメントが建つ「時の鐘ポケットパーク」がある。
【「時の鐘】下に身障者用トイレあり】

■参考リンク:棚倉町観光協会>棚倉城跡(亀ケ城公園)