義民のあしあと

白岩義民(間沢村三霊供養碑(東泉寺))

元和8年(1622)に最上義俊が改易になると、その領地は分割されて、出羽国村山郡白岩郷8千石は旗本・酒井忠重に委ねられます。
しかし、酒井忠重の苛烈な支配に耐えかねた領民は寛永10年(1633)に非法の数々を幕府に直訴し(白岩一揆)、寛永15年(1638)に忠重も改易となり、幕府直轄として代官・小林十郎左衛門の支配に代わります。
代官支配も以前とほとんど変わらず、領民はまたも一揆を起こしますが、山形藩主・保科正之の計略により、藩主が訴えを受け付けると騙されて山形に出向いた総代36名が捕縛され、幕府からの命令を待たず、全員が磔刑に処せられました。


義民伝承の内容と背景

元和8年(1622)、「最上騒動」などのお家騒動もあって、山形藩57万石の最上義俊が改易になると、その領地は分割されて、出羽国村山郡白岩郷8千石(現在の山形県寒河江市)は、庄内藩主・酒井忠勝の弟にあたる旗本・酒井忠重に委ねられます。

しかし、酒井忠重の苛烈な支配に耐えかねた領民は、寛永10年(1633)、俗に「白岩状」「白岩目安」と呼ばれる非法23か条を記した訴状をもって幕府に直訴します。
このなかには、百姓を相手に米などの押し売りや高利貸しをすること、百姓の女房を城に召し出して美醜で選んで留め置くこと、人馬を不当に徴発すること、苛政の結果として白岩で餓死者・身売りの者を1454人も出したこと、などが列挙されています(ただし、伝本によって内容に違いがある)。

これを「白岩一揆」と呼び、寛永15年(1638)には忠重も改易されて庄内藩に預けられ、領地は幕府直轄として代官・小林十郎左衛門の支配に代わりますが、代官支配も以前とほとんど変わらなかったため、その3か月後、領民はまたも一揆を起こします。

このとき、代官は山形藩主・保科正之に対応を相談し、まず城代の保科民部が白岩に派遣されて、山形藩主が訴えを聞くからと農民を宥めて、総代らを山形城下まで出向かせます。

しかし、これは保科正之の計略であって、山形に直訴に訪れた36人は残らず捕縛され、その後幕府老中・酒井忠勝の裁定を待つことなく、保科正之の独断で、寛永15年(1638)年7月に36人全員が山形城下の広河原で磔刑に処せられたといいます。

その後、地元では彼ら処刑された白岩義民のための供養塔がつくられ、今でも山形県西村山郡西川町の東泉寺、山形県寒河江市の誓願寺の2か所に残されています。

東泉寺の「間沢村三霊供養碑」の2基は、寛文10年(1670)の三十三回忌にあたって、間沢村出身3名の法名である月山永公、常秀道眼、空假是心を表面に刻んだものです。
上部に縄目のような2本線がありますが、これは一揆を首謀した罪人であることを縄目をもって明示し、ようやく役人から許しを得たものという言い伝えがあります。
現在は山形県西川町の指定文化財となっています。

誓願寺の「白岩義民の墓」は、笠石型の大きなもので、元禄年間の建立と推定されており、施主として「白岩八千石大庄屋和田庄左エ門 惣名主総百姓」の名がみられます。
正面には「南無阿弥陀仏」と大書され、その脇にさきの月山栄公をはじめとする法名が38人分(山形で処刑された36名のほかに2名の犠牲者がいたと考えられている)刻まれています。
現在は山形県寒河江市の史跡として指定されています。

間沢村三霊供養碑(東泉寺)へのアクセス

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名称

間沢村三霊供養碑(東泉寺)

場所

山形県山形県西村山郡西川町大字間沢1171

備考

国道112号沿いのセブンイレブン西川町間沢店がある交差点角を北に曲がった突き当りに東泉寺があります。東泉寺の本堂裏手が墓地になっており、この一角に小さな供養塔があり、西川町教育委員会の史跡案内板が立っています。
ほかに、国道112号を入って六十里越街道沿道にある山形県寒河江市白岩153の誓願寺にも、境内墓地の手前覆堂のなかに「白岩義民の墓」があります。


参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

東北地方 白岩義民 白岩一揆