義民のあしあと

市毛藤衛門(勘十郎堀)

江戸時代の宝永年間、財政に窮乏する水戸藩では客分として松波勘十郎を登用し、宝永改革を開始します。なかでも北浦・涸沼・太平洋を結ぶ紅葉運河および大貫運河の建設はその目玉事業でしたが、多数の農民を徴発した上に労賃を支払わなかったことから、宝永6年(1709)、領内から数千人が江戸に上り、上吉影村藤衛門を代表に藩邸に出訴し、松波勘十郎の罷免を勝ち取ります。当時開削された運河は「勘十郎堀」と呼ばれ、今でも現地にその遺構が残されています。


義民伝承の内容と背景

水戸藩では3代藩主・徳川綱條(つなえだ)の頃になると、2代藩主・徳川光圀がはじめた修史事業(『大日本史』編纂)や江戸藩邸の焼失などで出費がかさみ、財政的に窮乏するようになりました。

そこで綱條を中心として「宝永の新法」「宝永改革」などと呼ばれる一連の財政改革がスタートしますが、宝永3年(1706)9月に客分として松波(並)勘十郎良利が300人扶持で招かれて以降にそれが本格化します。

松波勘十郎については不明な点も多いながら、美濃国加納藩(今の岐阜県岐阜市)の奥田家の出身で、同国の松波文右衛門のもとに養子に入って加納宿庄屋となり、その後は諸国をめぐって上総大多喜藩、大和郡山藩、備後三次藩、陸奥棚倉藩などの財政改革を次々と請け負った、当時「勘者」と呼ばれて重宝された財政家にあたります。

松波勘十郎は役所の廃止、年貢増徴などの改革を次々に進めますが、とりわけ中心となったのは、北浦と涸沼を結ぶ「紅葉運河」、涸沼と太平洋を結ぶ「大貫運河」の開削でした。

当時の水戸藩では太平洋に開けた那珂湊(今の茨城県ひたちなか市)から那珂川、涸沼川を遡って涸沼に出て、対岸の海老沢河岸(今の茨城県東茨城郡茨城町)に至るまでの水運が確保されていましたが、涸沼から北浦までは積み替えをして陸路で輸送しなければなりませんでした。

そこで、海老沢から北浦に注ぐ巴川沿いの紅葉まで約8キロの「紅葉運河」を開削して陸路輸送を回避するとともに、涸沼川と那珂湊の南にあたる大貫海岸(今の茨城県東茨城郡大洗町)とを直接結ぶ約1キロのショートカット「大貫運河」をつくることで、年貢廻米の効率化および「津役銭」と呼ばれる通行税の徴収による藩財政の潤沢化を図ろうとします。

この掘割工事にはのべ130万人の農民が動員されたといいますが、もともと涸沼と巴川の水位差が大きかった上、途中の内陸のルートは火山灰層である関東ローム層の台地のために法面が崩壊し、海岸部も漂砂ですぐに埋まってしまうなど、使い物にならないありさまでした。

それ以上に問題となったのが工事における農民の酷使や賃金の不払いで、特に藩札発行が幕府により禁止されてしまったこと(「宝永の札遣い停止令」)も大きく影響しており、後に「水戸藩宝永一揆」の訴状に「駄賃一切下されず候事」「人夫当座に死に失せ申候」などの非違行為が記される原因となりました。

ほかにも松波は領内に密偵を放って反対者を取り締まっており、浜街道沿いの宿場町があった田彦村(今の茨城県ひたちなか市)で副業として歩行夫(かちぶ:運送業者)をしていた百姓・又六は、密偵と知らずに美濃部又五郎という旅の武士に気を許して「改革で国中が困窮して蝉の抜け殻のように空っぽだ」と話して非難したために役所に出頭を命じられ、名主の屋敷牢に押し込められています。

このような状況の中で、宝永5年(1708)には郡奉行・清水仁(右)衛門清信に対して年貢減免や賃金支払いをめぐる農民からの訴えがありますが、この清水仁衛門は「勘十郎同心の者」といわれる腹心の部下だったため、当然ながらいっさい取り上げてもらえることはありませんでした。

そこで「袋廻文」(袋に入った決起文)が国中をめぐり、宝永5年(1708)から翌年にかけて、水戸藩の全藩にわたる大規模な一揆「水戸藩宝永一揆」が勃発、多数の農民が江戸に上る事態となります。

宝永6年(1709)正月にはいったん登城途中で待ち伏せしての藩主への直訴(駕籠訴)が企てられますが、不穏を察知した藩側によって登城ルートが変更されて失敗に終わり、その後農民1,500人が水戸藩の支藩である守山藩の江戸藩邸に門訴して訴状が受理され、水戸藩へと回付されました。

水戸藩では奉行・師岡与左衛門綱治らが勘定所において農民の代表者である上吉影村(今の茨城県小美玉市)庄屋の市毛藤(右)衛門と折衝していますが、農民側では傘連判状をつくって要求項目を箇条書きにしており、これによれば松波勘十郎・清水仁衛門両名の罷免、年貢その他の夫役などの負担軽減、未払い賃金の支払い、田彦村又六の釈放などを強く求めています。

折衝は当初難航していましたが、折しも上野寛永寺での5代将軍・徳川綱吉の葬送が正月28日に予定されており、農民が実力行使に出て騒ぎが大きくなれば、運河のルートにあたる守山藩領の鹿島郡城之内村を勝手に水戸藩領に付け替えていたことが幕府に知れるおそれがあったことから、藩は27日になって突然、松波・清水の罷免と改革の中止を決めて翌日早朝に農民側に伝達し、江戸に集結していた農民たちは残らず帰村することになりました。

水戸藩では松波勘十郎父子を追放、清水仁衛門を改易するとともに、老中・島村言行に蟄居を命じるなど関係者の処罰を進め、あわせて半年がかりで主な制度を改革以前に戻して事態の収拾を図っています。松波勘十郎についてはこれだけでは終わらず、追放されていた京都から江戸に戻ったところを勝衛門・仙衛門の息子2人とともに捕らえられて水戸の赤沼獄に入牢させられ、宝永7年(1711)11月に獄死しています。

このように「水戸藩宝永一揆」は他の一揆とは異なり、死罪などの農民側の犠牲者を出さずに要求を貫徹させたところが特徴的であり、市毛藤衛門自身が記した『御改革訴訟』や、これをベースにしたとみられる『宝永水府太平記』『宝永太平記』などの記録が写本となって流布しています。

もっとも、実際に農民の犠牲を出さなかったのかどうかについては疑問の余地がないわけではなく、藤衛門とともに行動した久慈郡小沢村(今の茨城県常陸太田市)庄屋・岡部治衛門をはじめとする水戸藩北領の庄屋8人衆はついに帰村せず、地元で「身代わり地蔵」を建てて供養したことが、庄屋の子孫に言い伝えとして残っているとのことです。

また、当時開削された運河は「勘十郎堀」と呼ばれ、今でも現地にその遺構が残されており、茨城町指定文化財となっているほか、東関東自動車道水戸線の建設にともなう発掘調査も一部で行われています。

勘十郎堀へのアクセス

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名称

勘十郎堀

場所

茨城県東茨城郡茨城町城之内地内

備考

「勘十郎堀」は地元の茨城町史跡に指定されていますので、県道50号水戸神栖線の「茨城町指定史跡勘十郎堀跡」という標識を頼りに進むと、町道沿いに教育委員会が建てた案内板を見ることができます。現地に長居をするのであれば、町道をさらに150メートル西に進んだ先(小幡養鶏場の入口あたり)に見学者用の駐車場が用意されています。


「六部塚」(36.2427,140.4423)は、工事で亡くなった犠牲者を弔うかなり大型の供養塔であり、勘十郎堀の駐車場の隅にあります。茨城郡下大野村(今の茨城県水戸市)の村役人とみられる畠山左太夫が、供養の意味で法華経66部を書写して諸国を巡礼し、霊場ごとに納経し終わったしるしに、小石1つにつき法華経の1文字ずつを書いた一字一石経をこの塚の下に埋め、正徳元年(1711)に城之内村の行者・玄龍と協力して供養塔を建てたことがわかります。


「赤沼獄」(36.368071,140.495846)は、現在の水戸市東台2丁目地内にあり、周囲はほぼ住宅地や駐車場ですが、その一角には慰霊碑が建てられています。


「市毛藤衛門墓碑」(36.2175,140.4105)は、県道144号線と145号線の上吉影北交差点に隣接する上吉影共同墓地内にあり、かなり風化しているものの、笠付きの石塔の裏面に「造立施主 紅葉村市毛惣衛門広重 上吉影村市毛藤衛門吉長 元禄八乙亥十一月二十三日」と刻まれています。



参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

関東地方 市毛藤衛門 水戸藩宝永一揆